2010年11月11日 (木)

インクルージョン(11/11改)

先日『フィンランドにおける特別ニーズ教育』という演題の研修会(講師:成蹊大学教授 牟田悦子先生)に参加しました。

フィンランドというと,私が連想することは,映画『かもめ食堂』と白夜くらいだったのですが,この国は実は,教育先進国だったのですね。

たとえば,3年に1回実施されているPISA(世界規模で実施されている義務教育終了段階の生徒の学力テスト)の結果は,過去3回連続世界一です。

フィンランドでは,教師は大変に尊敬される人気の高い職業で,小学校以上の教師になるためには,修士資格が必要。すなわち,教師は研究者でもあるわけです。

隣接するスウェーデンやロシアに支配された時代もあるのですが,1917年に独立しています。そして,なんと,国際経済競争力は世界第1位なんです。古くから行われている林業は有名ですが,最近では,携帯端末機の世界シェア1位を誇るノキア社がフィンランドの法人です。

あと,学校教育の中に「部活動」という概念がないことは日本では考えられないことです。尤も先生は研究者ですから,当たり前といえば当たり前。職員室というのは,お茶飲み場程度のものであり,授業時以外の時間,先生方は,各自に与えられた個人研究室に籠もって教材研究や自分の研究を進めています。

そして,国民性として平等を重視するわけです。これは約8割のプロテスタント(と1割強のカトリック)の影響があるのかもしれません。そして,この国の(特別支援教育を含む)教育の原則は,『インクルージョン』(障碍のある人もない人も同じ教育を受けるという意味)なのですが,この『インクルージョン』が本物のインクルージョンを実践しているらしいのです。

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2010年11月 3日 (水)

「教師として恥ずかしいこと」

大矢正則 記
今日は,都内で行われた『緊急「国資格・心理士」公開シンポジウム』に,学校心理士の立場で参加してきました。
心理士(あるいは心理師)の国家資格問題に関しては,ここ数年間の政局がらみ等々(他にも原因はありますが省略)によって,臨床心理士・医療心理師の「2資格1法案」化が頓挫しました。
その後,日本心理諸学会連合を中心にいろいろと連絡・調整をしており,少~しずつ,問題点や目指すべき姿が見えつつあります。
しかし,たとえば,最大多数派である臨床心理士(個人ではなく,養成課程等の専門性の問題他)が医師会から「よし」とされていないなどの問題があるため,心理士(心理師)の国家資格化の議論は,なかなか進まないのが現状です。

こういう話を,専門的に心理や臨床心理にたずさわっている方々以外にお知らせしても興味がないかもしれません。

しかし,そのシンポジウムの基調講演で,ハッとする発言を聴きました。

その基調講演は,学芸大の名誉教授でもあり,日本LD学会会長でもある上野一彦先生がなさったのですが,それはそれは中身の濃い凝縮されたものでした。

10個くらいのタイトルをつけて,10回のブログに分けて説明したいところです。しかし,いろいろな制約があるため,それは叶わないことなので,一つだけ,先生のご講演の中から,私にとって,とても衝撃的だった言葉を紹介します。

かつて,教師は,手のかかる生徒を受け持つことに意義を感じたものです。
しかし今では,教師が「私は教えやすい生徒を教えたい」と発言することが恥ずかしいことではなくなってきている。

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2010年10月31日 (日)

罪を見過ごされる神

101031b阿部仲麻呂神父。「あべなかまろ」と読みます。
遣唐使に同行し,長安に留学し,科挙に合格した歴史上の人物・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と良く似たお名前ですが,二文字目が,「あべなかまろ」さんの方は「部」,歴史上の「あべのなかまろ」さんの方は「倍」です。

その阿部仲麻呂神父様は,サレジオ会という修道会の司祭であり,かつ,現代の日本を代表する神学者のお一人で,大学や大神学院で教鞭を執っておられます。
その阿部神父から,3年ほど前に,神父様自身の著書『神さまにつつまれて』をいただきました。

さて,今日のカトリック教会の第1朗読は,『知恵の書』。この書は,カトリック教会だけが正典と認めている「旧約聖書続編」の中の一つなので,聖書の中では知名度の低い文書です。
しかし,カトリック教会は,この『知恵の書』を大事にしており,今日の典礼(ミサ)でも読まれました。
読まれた箇所は11章22節~12章2節まででしたが,私はこのうち,11章23節~26節が,聖書の中でも好きな箇所の5本の指に入ります。その日の気分によっては,「一番好きな箇所」と言っても過言ではないかもしれません。
引用しますと,

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ,回心させようとして,人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し,お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら,造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し,あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ,すべてはあなたのもの,あなたはすべてをいとおしまれる。
(知恵の書11:22~26)

私は,特に,罪の状態に陥りやすい私たちを憐れみ「回心させようとして,罪を見過ごされる」という点にグッとくる。
本当に何度,私は罪を見過ごされてきたことか。
しかも,大罪になる寸前で,逃れたことが何度もある。
その度に,(神さまに)「裁かれなくて良かった」という気持ちが心を過ぎる。
そして,その都度,上の聖句を思い出し,
「ああ,また回心に招かれている」と思う。
そして,しばらくはその恵みを忘れずに過ごすのだが,
また,すぐに弱さから,「見えなくなり」,罪を犯す。

その罪とは何か。
あまりに多すぎて挙げきれないが,
まず,現実的な,生活上の罪。
つまり,家族をはじめ周囲に嫌な思いをさせたり,傷つけたり・・・・・。

それから,遠藤周作が『沈黙』の中で言っている「人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れる」という罪。この見方でも,家族や友人の人生の上を烈しく通過していることによる罪は大きい。

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2010年10月25日 (月)

奇跡の生還

昨日(10/24)に放映されたNHKスペシャル『奇跡の生還』は,チリの鉱山落磐事故によって地底深くに70日間閉じ込められた人々がどう生活をしていたか,また,それを救出するために地上ではどんな人たちがどんな思いでどのように働いていたかを伝える速報番組であった。

番組は前者(地下での生活)に重きがおかれていたが,私は後者(救出にたずさわった人々)の姿が,聖書の「中風の人をいやす」場面の「四人の男」に重なって見えた。
四人の男は,次の引用の四人の男である。

数日後,イエスが再びカファルナウムに来られると,家におられることが知れ渡り,大勢の人が集まったので,戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると,四人の男が中風の人を運んで来た。しかし,群衆に阻まれて,イエスのもとに連れて行くことができなかったので,イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ,病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たち信仰を見て,中風の人に,「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。その人は起き上がり,すぐに床を担いで,皆の見ている前を出て行った。(マルコ2:1~2,12a)

この奇跡物語は,聖書の中では,いわゆる「癒しの奇跡」に分類される。「癒しの奇跡」で救われる人は,こぞって,「あなたの信仰があなたを救った」とイエスに言われる。
しかし,この「中風の人のいやし」はちょっとだけ違う。この中風の人は,自分でイエスのところにやってきたのではなく,四人の男に「運ばれて」イエスのところにやってきた。ところが,大勢の人に阻まれて,イエスのいる家に入ること出来なかった。すると,四人の男たちは,中風の人を連れたまま,屋根に登り,穴をあけて,イエスのいる前に担架に載せたままの中風の人を吊り下げたのだ。それを見たイエスは,屋根に穴をあけた四人の男の信仰を見て,中風の人を救った。

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2010年10月24日 (日)

命から命へ

一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが,死ねば,多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は,それを失うが,この世で自分の命を憎む人は,それを保って永遠の命に至る。(ヨハネ福音書12章24・25節)

 101024lj_3 若い頃,長い間悩んでいたとき,この聖書の一文を読んで,ハッとしたことを今でも鮮明に覚えている。
  その頃,大学一年生だった私は,まだキリスト教のことはほとんど何も知らなかった。聖書も持っていなかった。だから,上述の聖書箇所も,ある本の中で読んだ。その本は,大学の一般教養で「美術史」という科目を担当していたジョセフ・ラブ(本名)という名前の教授が書いた『教えるヒント学ぶヒント』(新潮選書)という本の中に書いてあった。私はこの科目を履修していて,その先生から直接,この本を購入した。
 先生のことは,「ラブさん」と呼んでいた。優しい先生だったが,レポートの評価は厳しかった。その後,大学を辞められて,現代画家としての創作活動に専念したとうかがっている。

 あの頃の私は,何かにしがみつき,あるいは,過去に囚われ,前進できずにいた。そんな精神状態で読んだ「一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである」は,まるで自分自身を指しているように思えた。何の生産性もない日々を何年間も過ごしてきたからだ。 

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2010年10月22日 (金)

「人間失格」・「ヴィヨンの妻」

Dazai_2 Project BUNGAKUという企画の芝居が,9月30日から10月10日の日程で上演されていた。
ワーサルシアターという,八幡山(京王線の上北沢と芦花公園の間の駅)にある,80名定員の芝居小屋,というか稽古場のようなところで上演された。
この企画は,若手新鋭の演出家4名が,各々持ち時間20分間で,太宰作品を一つ芝居に仕立て上演するというのもの。
4名の新進演出家各々が一つずつが選んだ作品は,「Human Lost」,「燈籠」,「ヴィヨンの妻」,「人間失格」であった。個人的には「桜桃」が入っていなかったのは惜しいが,すべて見応えがあった。
「燈籠」や「ヴィヨンの妻」などは,おそらく朗読するだけで20分で終わってほどの長さの作品である。「Human Lost」は太宰が脳病院(精神科病棟)に入れられている1ヶ月ほどの日記。「人間失格」は太宰の中では長編。それぞれ、演出家はどうやって仕立てるんだろうと思い,とにかく初日から観に行ってみた。

これが,大当たりだった。

80名定員の客席は,ちょうど満員になるくらいにチケットはさばけた様子。
4作品,それぞれ若手演出家の持ち味がよく出ていたが,何と言っても「人間失格」が傑出していたように私は思った。
演出家の谷賢一氏の構成と主人公・葉蔵役のコロさん(柿喰う客)の演技,特に葉蔵の表情づくりが素晴らしかった。
小説「人間失格」は,文庫で読むと200ページくらい(だったかな)の作品だから,僕だったら読むのに(今はやりの速読は大嫌いなので)数時間はかかる。
しかし,この芝居の上演時間はたった20分。
なのに,劇を見終わった後,原作を全部読んだのと同じ重厚感(変な言葉ですが)を感じた。
この芝居,おそらくもう上演される機会はないと思うので,本当に見て良かったと思います。
あまりにも,良かったので,楽日(この日はチケットが売り切れだったので)の前日にもう一回観に行きました。

ところで,芝居としては「人間失格」に引き込まれたけれど,印象に残った台詞は「ヴィヨンの妻」での大谷・主人公(多分太宰自身がモチーフ)と妻の遣り取り。

大谷「・・・,おそろしいのはね,この世の中の,どこかに神がいる,という事なんです。いるんでしょうね?」
妻「え?」
大谷「いるんでしょうね?」
妻「私にはわかりませんわ」
大谷「そう」

月並みですが,太宰の,神を畏れ,神を求める気持ちがストレートに表現されている箇所だと思います。

それと,小説の結末。新聞で「人非人」と酷評されている夫・大谷が,妻に対して,自分は人非人なんかではないと弁明したとき,妻が返す言葉。

「人非人でもいいじゃないの。私たちは生きていさえすればいいのよ」

なんだか,私が言われているような気になりました。
まるで,高校生のときのように。

いや,あの頃と違って,ちょっとしんみりきました。

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2010年10月11日 (月)

夜空には星のないところはない

2月くらい前,勤務校の学園休業期間(世間で言うお盆休み)を利用して,
マウナ・ケアからの星空を眺めることを主な目的として,
ハワイ島に4日間行ってきました。

序でに,オアフ島にも,21年ぶりに3日間行ってきましたが,
オアフ島,特にワイキキ周辺の変わり様には,聞いてはいましたが,
がっかりして帰ってきました。
具体的には町の汚さと,交通マナーの悪さです。
ハワイ島ではレンタカーを借りてあちこちに移動しましたが,
オアフ島ではほとんどコンドミニアムから出ずにいました。
唯一,ワイキキで良かったのは,セント・アウグスティヌ教会。
平日にも関わらず,毎日ミサに参加することが出来ました。
ここの教会はビーチサイドということもあり,
さすがに水着のままではダメですが,
ビーチサンダルと,袖無し・半ズボンでミサに参加している地元の人が大勢いました。
以前,サイパンでミサに参加したとき,
皆さんが襟のあるシャツと長ズボンだったこと対照的でした。
ところ変われば,ミサに参加する服装に対する考えは違うのですね。
しかし,変わらないことは,そこに行けば,ご聖体
(信者ではない方のために,説明すると,
本来目に見えないキリストの体=命を,
教会が定めた”秘跡”という制度に従って,ウエハウスのような見える形にしたものです)
をいただけるということです。

つまり,世界中どこに行っても,カトリック教会に行けば,
そのような”秘跡”としての,キリストに,出会うことが出来るわけです。

難しい話はこの辺にして,
マウナ・ケアですが,ここはご存知のように,約4200メートルのその山頂付近には,
世界十数カ国の天文台があり,日本の国立天文台もすばる望遠鏡を設置しています。
この夏のハワイ行きはここに行くことが目的でした。
もちろん,そこから観たサンセットや雲海はきれいでした(写Hawaii_5真をクリックしてみて下さい)。

しかし,なんといっても圧巻はその星空です。
肉眼で見たのですが,お天気にも恵まれ
(一年中ほとんど晴れるそうです。だから天文台には適している),
天の川さえ,手に取るように見ることが出来ました。
そして,日本では考えてもみなかったことですが,
夜空にはどこにでも星があるということです。

更に,案内してくれた現地の星空専門のガイドさんの話を聞きながら,
ちょっと感動したことがあります。

ガイドさん「本当に日本では考えられないくらいの星の数でしょう」
私「本当にそうですね。どこを見上げても星がある」
ガイドさん「肉眼でこれだけ見えるのですからね」
私「・・・」
ガイドさん「・・・」
私「あっ,そうか」
ガイドさん「肉眼で見えない無数の星が・・・」
私「そうですね。もし全部の星が見えてしまったら,空一面,星で一杯。銀色な訳か」
ガイドさん「夜空には,いや空には星のないところはない」
私「あの黒くて何もないようなところにも,実は遠くには星がある」
ガイドさん「そうなんでしょうね。なかなか想像しがたいですが・・・」

空には星がないところはない。
夜空を見上げても星が見えない暗いところにも星がある。

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2010年10月10日 (日)

「君がいなかったら・・・」

私は教員をしています。
当たり前ですが,毎日,苦戦している生徒と関わっています。
そして,苦戦している先生方とも・・・。
そういう私も,それなりの苦戦をしています。

教師は商売柄,生徒の将来を考えます。
いま,「考えます」と書いたけれど,正確には,生徒の将来に「口出ししている」と言った方が合っているかもしれません。

特に,人間関係で苦戦している生徒や,自分との関わりに苦戦している生徒には,
教師は,その生徒の将来に口を出したくなります。
「そんなことしていたら,君は社会に出た後,通用しないぞ」といった
なんともゾッとするようなお説教を,未だに耳にすることさえあります。

しかし,苦戦している生徒には,いや,普通の生徒でも,
大人が思っているような将来など,架空の世界に過ぎません。
ところが,大人にとっては,生徒にとっての「将来」は自分が歩んできた道でしかありません。

「オマエの将来を考えろ!」と言っている大人に,私はときどき言いたくなることがなります。
あなたの言ってる将来とは,あなたが歩んできた(か歩めなかった)道なのではないかと。
生徒たちの将来なんて,僕たちに想像できるはずがない。
それを,自分たちが歩んできた過去に置き換えて話す大人(教師)がなんと多いことか。

少し前になりますが,6月30日付けの朝日新聞で,香山リカさんが,次のように言っています。

人が幸せの感覚を得るには「違うものに変身しなさい」とか「こういうものを目指しなさい」と求めるのではなく,すでに達成していることを十分評価してあげることです。

耳が痛いです。
明日こそ,自他ともに幸せな感覚を得たいものです。

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2010年7月 4日 (日)

何もできなかった最高の日曜日

Kayama_daiji_2 今日の日曜日は有意義でしたか?

この書き始めを読んで,「全然有意義じゃなかった。何も生産的なことはできなかった」と思われた方も多いのではないでしょうか。

週末を使ってやろうと思っていた部屋の掃除,書類の整理,手紙の返信書き,・・・・・,中には溜まりに溜まった仕事をなんとかやり終えようなんて,金曜の夜辺りには考えていた人もいるのではないでしょうか?
でも,結局,ダラダラと過ごし,ほとんど捗らなかった。あるいは,何もできなかった。
「ああ,なんだか自己嫌悪」
そんな風に考えてしまいがちですよね。
こう書いている私も,ちょっと前までは,休日にはアレをやってコレを済ませて・・・・,なんて考えていました。まあ,今でも,さすがにいろいろなこと(部屋の掃除,書類の整理,先週の仕事のやり残し,・・・・・)が溜まりすぎると,まあ,何か一つくらいは片付けたいなんて思います。でも,だいたいできません。

あるいは,せっかくの日曜日なのに,どこにも遊びに行かれなかった。
だから,有意義な休日ではなかったなどと,はやり,若干落ち込んで考えている方もおられるでしょうね。

休日の過ごし方。
最近,気になっているCMがあります。
それは,佐藤隆太さんが出ている発泡酒のCMです。
ビートルズの♪Ob-La-Di,Ob-La-Da♪がバックに流れ,
発泡酒を持った佐藤隆太さんが,さわやかに叫びます。
「湖」篇と,「草原」篇があり,
http://link.brightcove.co.jp/services/player/bcpid10249703001?bctid=off_mizuumi_15
で,見ることができます。
「湖」篇では,発泡酒を片手に元気よく登場した彼が,

「みなさん,最近堂々と,休んでますかー!」

と叫びます。
「草原」篇では,すこし,ゆったりとした調子であぐらをかいた彼が,やはり発泡酒を片手に,

「せっかくですから,頭を空っぽにしませんか?」

とテレビから語りかけてきます。

私は,このCMを見たときに,香山リカさんの『大事なことは先のばしにしなさい』(2009年,ビジネス社)という本に書かれていた,「精神科医が考える理想的な休日の過ごし方」(70ページ)を思い出しました。

この本の中で香山さんは,「貴重な休みを有意義に」という考えが頭に浮かんだ時点で,もうその休みは休みではなくなっているのだと書いています。(69ページ)

具体的には,目覚ましをかけずに寝たいだけ寝て,布団のなかでダラダラして,お腹が空いてきたらパジャマのままで,冷蔵庫のものを適当に食べて,顔を洗ったりシャワーを浴びるようなことはせず,また布団に戻るもよし,テレビをつけるもよし,ただし真剣に見入ったりはしない。メールのチェックもせず,携帯の着信にもよほどのことじゃないと出ない。
こんな,エネルギーもお金も使わない,要は1日ダラダラするのが精神科医が考える理想的な休日だと書いています。

Morotomi_kodokulesson カウンセラーの諸富祥彦さんも,10年ほど前に『孤独であるためのレッスン』(2000年,NHKブックス)という本の中で,当時流れていた「何もしない,をしよう。自分に戻る列車の旅」というJR東日本のCMのコピーを引用し,これについて,「何もしないこと」を意識的に「する」ことが,「自分に戻るため」に必要であるという論理がうまく組み込まれているとうなっています。

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2010年6月19日 (土)

「遠い空の向こうに」

”OCTOBER SKY”(邦題「遠い空の向こうに」)という映画(2004,Universal Studios)を,昨日の放課後,高1生徒の聖書研究会で,生徒と一緒に観た。
NASAのエンジニアであるホーマー・ヒッカム氏の自伝を,ジョー・ジョンストン監督が映画にしたもので,高校時代に炭鉱街に住んでいた主人公のホーマーが,3人の仲間と共に宇宙ロケット打ち上げを夢見て,失敗を繰り返しながらも,諦めずに何度もチャレンジして・・・・(これ以上,書くと映画のストーリーがわかってしまうので,この辺で・・・・・),という,非常に感動的な青春映画であった。一緒に観た高校1年生たち(4人ですが・・・)も,放課後の眠たい時間帯,”一睡もせずに”じっと,小講堂のスクリーンを観ていた。

ストーリーはこれ以上書かないが,私がこの映画の中で,最も気に入った台詞を紹介しておきたい。
この場面,主人公のホーマーは,ある事情があって,一時,ロケットづくりを諦め,高校もやめてしまい,父の仕事である炭鉱夫の仕事を自分も(継ぐつもりで)やっていた。
そんなある日,ホーマーは,高校在籍時代に,いつも味方をしてくれていたミス・ライリーという先生の元を訪ねる。ミス・ライリー(ブリーダ・ライリー)も実在した人物で,その後,31歳の若さで亡くなっている。したがって,ライリーの晩年の言葉である。

ライリー先生は,ロケット打ち上げの夢を頓挫していたホーマーにこんな風に語りかける。

「ホーマー,知ってる?時には他人の言う事を聞いてはいけないの。自分の内なる声を聞くの。あなたは炭鉱マンじゃない。別の人生を設計しているはずよ」(なお,ここで,ライリーは炭鉱マンという職業について蔑視しているのではありません。ホーマーに,”別の人生を設計していること”に気づかせたいのです)。

このライリー先生の言葉をきっかけに,ホーマーは再びロケット打ち上げへの夢へと向かって進むようになります。

もちろん,普段の生活や人間関係の中では,他人の言う事に耳を傾けることは非常に大切なことです。そうすることによって,自分の考えと異なる人とも折り合いをつけて,付き合ったり,一緒にチームを組んで仕事に当たったりします。

しかし,ミス・ライリーがホーマーに言った,「時には他人の言う事を聞いてはいけない」,「自分の内なる声を聞く」もまた,実に大切なことであると思う。

なぜなら,「他人の言う事」は,たとえそれが親しい人の言った事であっても,所詮,他人があなたの一部を知って,あなたを,有限の時間内で見て言った事に過ぎない。それに対して,「自分の内なる声」は,自分さえ知らない,深いところにいる自分。自分さえ立ち入れない,自分の奥深いところ(Still Point)を通して語りかけてくれる,自分を超えた方,超越者からのメッセージだからだ。

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2010年6月17日 (木)

これでおしまい!

中島みゆきさんの「恋唄」という歌の中に,

ありがとうって意味が 
これきりっていう意味だと
最後まで 気がつかなかった

という歌詞がある。とてもせつない歌です。

恋愛をして,最後の別れ話の最中に,「ありがとう」って言われると,「ああ,本当にもうこの人は僕と別れるつもりなんだ」と一気に心に穴が空く。

「ありがとう」って言葉は,普通は言われると嬉しい言葉なのに,恋人の最後の言葉として,聞くのは辛い。感謝の言葉であることには違いないのだが,昨日まで言われていた「ありがとう」とは決定的な違いがある。これまでのことを全部ありがとうという意味。これが最後という意味。これからは,もう,言えなくなりますという意味。

「お礼なんかいいから,そんなことよりも,これからも付き合ってほしい」

そんなふうに思う。
でも,「ありがとう」って言葉で,もうダメなんだってことがわかる。

さて,恋愛場面ではなく(それも含むが),日常場面で,使われる「がんばって」という言葉にも似たような側面がある。

最近はこの言葉「がんばって」を,うつの人に言ってはいけない(一般的にはその通りだけれど,絶対に言ってはいけないわけではない。場合によっては,言ってあげることが必要な場合もある)ということばかりが新聞などによく書いてあるが,うつの人ばかりではなく,普通の日常会話の中でも,別の意味を持っていることに気づく。

何気ない会話の最後にも,「じゃあ,がんばってね」と言って別れることがありますよね。

生徒も「がんばって」と言われると,「あっ,もうこの話,終わりにしなければいけないんだ」と思うらしい。

僕たち教員は,「がんばって」といいながら,知らず知らずに,生徒に対して,「この話は終了」というサインを送っている。

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2009年12月15日 (火)

チームの時代

チームの時代だと思う。
日本人は,人に迷惑をかけないことを美徳とする余り,
あるいは,一匹狼的な仕事の仕方に寛容(どころか格好良いと思ってしまう)であるため,
昔からチームを組むのがあまり得意ではない。
若干関連するけれど,日本人の会議の下手さも国際的には有名らしい。

1982年のホテル・ニュージャパン火災において,レスキュー隊長として,救出劇の中心となった東京消防庁の高野甲子雄氏(以前,NHKのプロジェクトXで取り上げられた)に依れば,
良いチームを組む秘訣は

(1)普段からチームで動くこと
(2)緊急時には,そこにいるメンバーで動くこと

だという。

私は教員という仕事をしているが,このことは実に身に染みる。

普段からチームで動いているだろうか?
・・・。
緊急時にならないと,チームを組もうとしてはいないか?

さらに,緊急事態が起こったとき。
そこにいるメンバーで動こうとしているか?
ついつい,そこにはいない豪腕のメンバーを求めたりはしていないか?
「あの人がいてくれたら・・・」なんて思ってしまう。

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2009年10月12日 (月)

こころ

Imgkokoro006_2 大月書店が刊行中の考える絵本(全10巻)の1巻は,『こころ』(文・香山リカ,絵・益田ミリ)。絵本といっても,”「かわいい絵本」でも「笑える絵本」でもなく,「考える絵本」”(あとがきより)なので,大人が読んでも読み応えがある。たった30ページほどなので,数分で読めるが,読後,ずいぶんと考えさせられた。まさに,「考える絵本」だった。読んでいる最中も頷く,というか,「う~ん」(肯定の意味)と唸りながら読んだ。

絵本なので,文章は,多分1500字程度しかないと思うので,最初から最後までを要約するのは容易だが,それでは,この絵本のよさは伝わらない。

しかし,この本のよさを伝えたいので,1箇所だけ,僕が一番,「そう,そう」と思った箇所を引用しておきます。

こころって,ほんとうのことを言えないと,キズついちゃうんだな。

僕たちは,職場や学校で,あるいは,家庭でも,いろいろと人から言われることによって,傷つく。こころが。
そして,「今の一言は傷ついた」なんて思ったり,言ったりもする。

でも,実は,言われることだけでなく,自分がほんとうのことを言えないことでも,こころは傷つくと,この絵本は教えている。「ストレスがたまる」という言い方でいわれているものに近い気もするが,ほんとうのことを言えずに過ごす毎日は・・・・・,やはり,こころが傷つく。

じゃあ,何でもかんでもほんとうのことを,言えるようになればいいのかというと,これは全然違うし,社会生活を営んでいく上では困難。やっぱり,ほんとうのことは言えずに過ごすことの方が多い。

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2009年3月31日 (火)

オンリー・ワン?

君が君を好きだったとき, もしかして君は自分のことをすばらしい,優秀だ,人より何...

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2009年3月28日 (土)

キリスト教入門講座始めます

今日はちょっとPRです。 約1年ぶりに,カトリック雪ノ下教会にて,キリスト教入門...

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2009年2月15日 (日)

今,あなたを,愛する

13世紀,ドイツのエックハルトという神学者は,仲間達から3つの質問を受けたそうです。

(1)1日の中で一番大切な時間はいつですか?

(2)人生の中で一番大切な人は誰ですか?

(3)人生の中で一番大切なことは何ですか?

どう答えたと思われますか。

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2009年2月11日 (水)

近道はただそれだけのこと

僕の勤務している学校では週6日制(週休2日じゃないということ)で,生徒朝礼は半分の週3回が教室朝礼で,残りの週3回は,学年をまたいでの外朝礼となる。

この外朝礼が曲者で,毎回校長先生の話なら,僕たち普通の(?)教員には気が楽なのだが,ローテイションで全教員に講話が割り振られる。

僕の場合,ほとんど,その日の朝に出勤してから,自分が当番であることを担当の同僚教員から告げられ,「え~っ,ホントですか~。知りませんでした~」と言いながら,しょうがないから,思いついたことを,目一杯生徒に話す。

「戦争はしちゃあいけないよ」

「僕より先に死んではいけないよ」

「沈黙してごらん。何が聞こえる?」

なんて,思い立ったままのことを話す。

さて,ところで,最近,この外朝礼で,同僚が生徒に話したことで,心に沁みたのがタイトルの言葉。

劇作家・山田太一氏の座右の銘として,その同僚は生徒に紹介したのだが,僕は妙に共感してしまった。

そう,近道はただそれだけのことさ!

しかし,だからと言って,「遠回りしたからと言って,必ずしも何かが見つかるとも限らないのですが」と言うあたりが,K先生(その話をされた同僚)らしいなあと思った。

僕たちは自分が道を選ぶのではなく,用意された道をめいっぱい歩むだけなのではないだろうか。

だからこそ,僕は君の歩を応援しているし,僕も君の助けを必要としている。

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2009年1月 3日 (土)

正直者がホームレスになる

M君
毛布が必要か,必要でないか。本人の意思を聴き尊重することが大切だと思う。
(そうだよな。僕なんかついつい自分の価値観で考えてしまうよ。これって相手を大事にしていないってことだよね)

F君
「ありがとう」と言われて嬉しかった。ここにいるかいないか(野宿者となるかならないか)は,自分のせいとかではなく,運・不運ということだと思う。でも,やっぱり,この状況はおかしいと思う。
(そうそう,「ありがとう」って言われると,「ああ,俺なんかでも人の役に立てるんだ」って思えるよな。あと,「おかしい」と思える感覚は大事だよ。その感性を大切にして)

S1君
人としてのレベルはここにいる人の方が他の人より上だと思う。あと,(ガソリンを浴びせて火を点けるなど)少年の集団での襲撃はあまりにひどいことだと思う。
(人としてのレベルか~。ここにいる人たちは上品に生きているってことかな)

T君
線路の向こうは通天閣とかある新世界。あまりにも境界がハッキリしすぎている。
(うん。明らかにここは行政によって作られた街だな)

S2君
交番の前にひどい怪我をした人が転がっていたのに放って置かれていた。ここでは警察は弱い者の味方ではなかった。

(確かにここの警察官は,おっちゃん達が人からもらった自転車に乗っているだけでしつこく「お前のか」って聞くのに,博打や売春に対しては熱心じゃあなかったなあ。みんなが悪い警官とは思いたくないけど・・・)

A君
ここにいる人たちは,政治的に過激だなあと思った。

(自分たちがこんな目にあっているんだもの。政治に恨みを持つよなあ)

H君
夜回りをするということは,寝ている人を起こすということなのだけれど,そんな悪い環境の中でも,おっちゃん達は笑顔を見せてくれる。
(笑顔は相手を元気にするよね。やっぱりここでは僕たちの方が元気をもらっている)

O君
正直者がホームレスになるのかなあ。
(確かに,ここのおっちゃん達は,クソ真面目だよね。一緒に炊き出しとかしていると,皿の洗い方ひとつ取ったって,きっちりと流儀が決まっていて妥協しない。悪くいえば融通が利かないねぇ。だから,たまに仕事にありつけると極限まで働いちゃうらしいよ。使う側にとっては重宝だね。でも,要らなくなったら捨てられてしまう)

K君
世間一般に伝わっていることは真実ではない。
(その通りだね。「言わない嘘」って言葉があるよね。日比谷公園の派遣テント村には300人が集まったそう。でも,ここの場合,大阪南港の臨泊に1300人。そこにも行かない人が,こうやって野宿生活している。派遣村ではコンロが不足しているって報道されていたけれど,ここでは,コンロはあり得ないね。僕たちが参加した炊き出しだって,燃料は廃材だったものなあ)

Y君
自分は愚かでした。無知でした。なめてました。これからは本気で取り組まなければ。これが研修なんかでいいのかなあ。迷惑なんじゃないかなあ。自分の中では変化したが,自分が変わったところで,世の中が変わってくれる訳じゃあないから,どうすればいいのかわからない。
(君の気づきや変化こそが明日の世界を変えると僕は思う)

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2008年12月13日 (土)

居心地の良い集団

ちょっとわかりづらいタイトルを付けてしまいました。 たとえば,会社や学校などの集...

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2008年12月11日 (木)

健康(2)

健康が,WHOが定義するように「病気,あるいは虚弱でないというだけでなく,心理的にも,身体的にも社会的にも完全に良好な状態である」とするならば,この世に,常に健康な人はいないだろう。なぜなら,完全な状態は,まず来ないだろうし,万が一,来たとしても,長くは続かないと思うからだ。

しかし,なぜか私たちは健康を求めてしまう。

私たちは,健康を,目的ととらえてはいないだろうか。
本当は,健康は,何かをするための手段に過ぎない。

健康で,社会的地位があっても,他の人の痛みに鈍感だったならば・・・,
あなたはそういう健康を手に入れたいだろうか?

健康でない私たちのできていること,していること,やろうとしていることを,
健康な人なら,皆ができているだろうか。

「健康は乗り物みたいなもの。それがなくても他の乗り物がある。
電車がダメなら,バス。バスもダメなら歩けばいい」
と教わったことがある。

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2008年12月 8日 (月)

がんばるな!

「がんばるな!」 今日,テレビのコマーシャルから聞こえてきた台詞です。 それまで...

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2008年9月23日 (火)

健康

勤務校の研究室で,ため息とか,「怠い」,「ヨッコラショ」,「しんどいね~」といった独り言を聞く度に,もしも10円貯金をしていたら,多分,1週間で1000円は軽く貯まるだろう(笑)

もっとも私より若い人は黙々と仕事をしている。すごい人だなあと思う。若いって,いいなぁと思う,もちろん彼は若いだけではなくて,大変優秀な人で,私もいつも助けてもらっている。

さて,私を含め,若くない人はというと,私を除けば,やはり大変優秀な人たちである。
それは,仕事の面でも優秀だが,激務の中で,上手にため息をつき,小出しに「怠い」,「しんどい」を口にする。この点が絶妙だと思う。

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2008年9月21日 (日)

嘆きの淵にある時も

♪春に枯れ葉は舞い踊らず
秋に緑の芽は吹かない
夏に裸の梢を知らず
冬に花びら咲くこともない♪
(岡林信康『嘆きの縁にある時にも』)

カトリック教会では,今日は年間第25主日(A年)。読まれた福音箇所『私の気前のよさをねたむのか』については先日も書きましたし,3年前にも触れています。

ところで,旧約聖書の朗読箇所である『イザヤの預言』55.6~9についてですが,こちらの方についても,すでに何度か触れています

それにしても,

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ55:8)

という聖句はなんと救いに満ちた響きを持った言葉でしょう。
この聖句の主語「わたし」は神様で,「あなた」は私たち人間一人ひとりを指します。

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2008年9月16日 (火)

風詩

私は一週間の半分くらいはマイカー通勤で、残りの半分は江ノ電バスか、JRと徒歩で通勤している。
帰りは、下りホームはほぼ無人駅に近い北鎌倉駅で降りて、山の上の我が家に向かう。
明月院の横の坂を頂上まで登ると、家と同じ標高に達する。

さて、この帰り道、特に明月院(俗にいう紫陽花寺)の横を通るときは、
今は、秋の虫が大合唱だ。
この秋の虫の大合唱を聞くと、必ず思い出す歌がある。
岡林信康さんの『風詩』という歌。

♪秋の終わりに 鳴く虫の音は
そばにお前が 居るのに淋し♪

という歌い出しを、つい小声で口ずさんでしまう。
因みにいつも一人で歩くので、そばに「お前」は居ないのだが。

全部歌詞を載せたいところだが、著作権の問題があるので、
抜粋して紹介したい。

♪あの世この世を 幾度も往くは
もっと愛して 惚れるがためよ♪

この辺りって、絵本の『100万回生きたねこ』(佐野洋子、講談社、1977080917年)を思い出します。
それまで、どの飼い主も好きになれなかったねこは、
死んでも死んでも、また別の飼い主のねことなって、生き返ります。しかし、最後に、たった一人(一匹)の白いねこを好きになったあとで、死んだら、もうその主人公のねこは2度と生き返ることはなかったというお話です。

僕たちがなかなかあの世に入れないのは、まだまだ愛したり、惚れたりすることが足りないから?

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2008年9月15日 (月)

生徒自慢(2)

昨日の話なのですが、仕事があまりにも溜まりすぎていたので、日曜日だけれども勤務校に行きました。
学校に向かう途中、昼食を買うためにコンビニに寄りました。
そこで、高校生のA君にばったり。

私 :おはよう!
A君:おはようございます。
私 :今日は部活かね?
A君:はい。試合です。公式戦です!
私 :おお、そうか!じゃあ、観に行くよ!ところで、君はなに部?
A君:サッカー部です。
私 :わかった!

A君のことは中1の頃から知っているが、彼の所属部活までは覚えていませんでした。

さて、私が出勤した目的は採点をしたり、提出された夏休みの宿題ノートを見ることでした。そこで、結構静かな校舎内でチマチマと仕事を始めました。まあまあのペースで仕事は捗りました。(しかし、まだまだ残っていますが・・・。)

しばらくして、さっきコンビニで会ったA君のことを思い出したので、慌ててサッカー場に試20080914football_3 合を観に行きました。幸い、試合は終わっておらず、生徒たちの活躍ぶりを見ることができました。勝負も4-0で勝ちました。

終了のホイッスルがなって、選手たちがベンチに引き上げてくる中、僕はサッカー場をあとにしようとしていました。すると、偶然、僕が歩いている右真横側の10mくらい向こうから、先ほどのA君が引き上げてきました。サッカー場は広くて、僕はあまり目が良くないので、A君が試合に出ていることをわからずにいましたが、A君は試合に出ていたわけです。A君も僕に気づき、ちょこっと頭を下げました。ほんの一瞬の動作だったのですが、私は本当に嬉しかったです!A君の表情と動作から、私はA君が、私にお礼の気持ちを伝えようとしていることがわかったからです。(お礼をいわれるようなことはしていないのに・・・)

私が嬉しかったのは、(お礼をいわれるようなことはしていないにも関わらず)「A君に受け入れられている」という感じがしたからだと思います。
私もA君に感謝の気持ちを込めて、軽く会釈をしてサッカー場をあとにしました。

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2008年9月 7日 (日)

戦争する脳

『戦争する脳---破局への病理』(平凡社新書)という本を,数ヶ月前に読みました。 20080905_19  
著者の計見一雄氏は精神科救急医療(これ自体,まだまだ発展途上の医療分野ですが)の第一人者です。

内容を一言で言えば,脳科学的にみると日常と戦争は地繋がりであり,現在の日常と戦争は接近している,というようなことが書いてある本です。

この本の全体像はさておき,次の記述にとても興味を持ちました。

「ヒトの脳は宇宙で一番良くできた思考機械であるが,重大な弱点が三つある。一つは,一日七~八時間の睡眠を取らないとちゃんと働かないこと。四八時間完全に断眠した脳は全く当てにならない。二番目の欠点というか,取説上の注意点とでもいうべき特徴は,連続して単独運転させるなという点である。(中略)最後の三番目は、脳だけじゃ考えることも、感じることもできないという、当たり前の真実。」

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2008年9月 6日 (土)

無理なら私がついてゆきます

私についてきなさい。
無理なら私がついてゆきます。

冒頭の句は,~祈りを深めるために~というホームページに書いてあります。
イエズス会司祭(私に洗礼を授けてくださった神父様)が協力者として名を連ねています。

一行目の,「私についてきなさい」というニュアンスのことを,イエス様は,熱心に弟子や人々に語っていたことを聖書は伝えています。たとえば,マタイ福音書16章24節などです。
しかし,「無理なら私がついてゆきます」に該当するような記述はないような気がします。近いものとしては,同じマタイ福音書の28章20節後半の「わたしは世の終わりまで,いつもあなたがたと共にいる」という記述でしょうか。

それにもかかわらず,私は,この2行目の「無理なら私がついてゆきます」にとても惹かれるし,私にとっての神はこんな方です。
なぜなら,私が神についてゆこうと思っても,いつも遠くにかすんでしまい,いつでも見えなくなってしまうからです。
しかし,そんなときに,「無理なら私がついてゆきます」と仰有る神が後ろにいるという。
また,ときには抱きかかえて歩いてくださるという。
これも聖書のどこを探しても書いてはない。

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2008年9月 4日 (木)

マリアのように,マルタのように

生きにくい時代になってきた。

強者による不正が日常化し,不信感が漂う社会を見て育つ子供や若者は,自己効力感を持てず,将来に希望を見つけにくい。学校を出てからずっと,身を粉にして働いてきた中高年世代も,思わぬ倒産やリストラにあう。働き盛りの人たちも辛い。職場の最前線で働く彼(彼女)たちは忙しすぎて休みも取れない。いつしかドクターストップがかかり,長期休養や入院が必要になる場合もある。うつ病患者の数は増加の一途だという。うつの他にパニック障害やさまざまな神経症に悩む人々が増えている。これらの人々は,性格的にきちんとした人が多い。悩みや仕事を一人で抱え込んでしまい,人にまかせたり相談したりすることが苦手。このような真面目な人ほど落ち込みやすい。情報にも敏感に反応してしまう。

しかし,この時代の情報量の多さは,本当に必要なものを見えなくする。

「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ福音書10章42節)

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2008年9月 3日 (水)

ホッとする言葉

生徒たちに、友だちから言われてホッとする言葉と、友だちに言われるとイヤな気持ちになる言葉を聞いてみると、ホッとする言葉としては、「ありがとう」、「すごいね」、「おはよう」などがあがってきます。イヤな気持ちになる言葉の方は「うざい」、「きもい」、「むかつく」などが上位にきます。

ところで、「がんばれ」という言葉は、ホッとする言葉、イヤな気持ちになる言葉の両方に出てきます。上級生になればなるほどホッとする言葉より、イヤな気持ちになる言葉としてあげる生徒が増えます。

本当に苦しんでいる人は「がんばれ」という言葉をかけられてもどうにもならない。もし「がんばれ」という言葉が力を持つとすれば、それは自分と同じようにがんばらなければならない状況にある人に言われたときだけだろうという気がします。

しかし、現実には、「がんばれ」という言葉は、がんばらずに済む状態にある人が、未来に喘ぐ人に対して掛けていることが多いように思えてなりません。

「がんばれば報われる」、「がんばれば悔いは残らない」。そう言われたところで、これ以上がんばれない状況にある人には何の足しにもなりません。

「がんばれ!」
この言葉は、むしろ生きることで精一杯な人には負担を増やす言葉です。

一億総うつ時代といわれている現在の日本で、「がんばれ」はそう簡単に使える言葉ではなくなりました。

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2008年9月 2日 (火)

「わたしの気前のよさをねたむのか」

「わたしの気前のよさをねたむのか」

新約聖書マタイ福音書20章15節の聖句です。

朝から働いた者にも、夕方から少しだけ働いた者にも、同じ賃金を与える主人(=神)に対して、朝から長時間働いた者が不平を言う。それに対して主人が発した言葉です。有名な「ぶどう園の労働者」の譬え話からの一節です。

一見非現実的な論理ですが、これは教育の現場では普通に行われていることだと思います。

私は数学教師をしています。生徒に問題を解かせるとき、早くできた生徒にも、時間がかかってやっとできた生徒にも同じようにマルを付けます。そしてむしろ時間がかかって最後にやっとできた生徒にマルを付けるときの方が嬉しいものです。自分は神の真似をしているなどということを書いているのではありません。能力主義、成果主義を原理とした競争社会では受け容れられない、このような「気前のよさ」がまだ教育現場では残っているということを書きたいのです。

神は多く働けた者に、神ご自身のよさに気づくよう警告しています。神ご自身のよさとはすべての人ひとり一人を大切にするということだと思います。一時間しか働かなかった者は、実は一時間しか働けなかった者かもしれません。そうした者こそ神の助けを必要としているから、この譬え話でも、「最後に来た者」の方に先に賃金が渡されるのだと思います。

昨日、この国の首相は唐突に辞任してしまいましたが,前々政権以降あまりにも気前よく教育関連法案の成立が続きました。しかし、本当に大切な「気前のよさ」を教育の現場では大切に守っていきたいと思います。

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