お知らせ
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勤務校では,高1対象に「ゼミ」という授業が時間割の中にあります。
今は,文部科学省学習指導要領の『総合的学習の時間』の単位にカウントされていますが,
勤務校では,文部科学省が『総合的学習の時間』なんて言い出す前から,実施しています。
私は数学教師ですが,『自分とつきあう』という,なんだか怪しげ(?)なゼミを担当しています。
それはさておき,
それらのゼミの中に『社会のしくみを考える』という,またまた怪しげ(=面白そう!?)な講座があります。
このゼミの一大特徴は,1年間,毎回講師が変わるということです。
講師は卒業生が務めるのですが,原則として,41歳年上のOBが講師としてやってきます。
でもって,今日はたまたま数学の先生がやってきました。
実は私も数学教師なのですが,今日の数学の先生はすごかったです。
何がすごいって数学へののめり込み具合がすごいのです。
なんでそんなことを知っている(同じ時間帯の裏番組授業なのに)のかというと,
この『社会のしくみを考える』という講座だけは,
放課後に,ほぼ同一内容で,中一から高三まで自由参加のオプションコースがあるのです。
通称『OBゼミ』といいます。
私は今日,それに出てきたのです。
さて,そこで講師の先生がこんなことを言っていました。
「正しいとわかっていることを学ぶのはつまらない。
寧ろ,正しいかどうかわからないことを考えるのが面白い。
つまり,正しいことが証明できるのか,
それとも,正しくないことを立証する例(反例といいます)があるのかを探ることが面白い」
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実はとても疲れています。
この三連休,1日はネイチャーゲームの研修会で,
横浜市金沢区の海の公園に行きました。
冬だというのに寒すぎず,砂浜でリラックスしてきました。
あとの2日はだいたい家に居ました。
ゴロゴロしたり,壊れているPCと格闘したり・・・。
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私が勤務している学校には,
「愛の運動委員会」という組織と,それを支援するお母様方の「愛の運動たんぽぽの会」という組織があります。
これらの組織は,いわゆる奉仕活動をする会です。
主に学校近隣の施設への支援活動に協力させてもらっていますが,
昔(私が勤務し始める以前)から,上智短大内に本部のある「フィリピン・アフリカを助ける会」への物資(文房具)支援も行っています。
その会から年に2回送られてくるニュースレターの中で,
ここ数年,「R.D.コンゴ」という文字が毎回載るようになりました。
現地からのシスターのレポートによるとかなり飢饉がひどいらしいのです。冒頭の写真は最新のニュースレターからスキャンしました。
ところで,この「R.D.」の意味なのですが・・・。
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不便なところに住んでいるので,家族を最寄り駅まで迎えに行くことが多い。
大抵,電車の到着時刻に合わせて私がちょっと先に着き,
少しすると,妻とか娘とかがが車に乗ってくる。
その数分から10分待ち時間の暇つぶしのために,
車には,一冊の本が置いてある。
スーザン・ヘイワード『聖なる知恵の言葉』(PHP研究所 1995)だ。
実はこの本,昨年,「ブックオフ」に古本を売った際にもらったサービス券で買った。
多分,100円か200円だったと思う。
今日,こんな言葉を見つけた。
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毎週金曜日は,中3生と一緒に聖書研究会をやっています。
一昨日は,マルコ福音書5章35節~43節を読みました。
42節の途中まで引用します。日本聖書協会の新共同訳からです。
イエスがまだ話しておられるときに,会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう,先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて,「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして,ペトロ,ヤコブ,またヤコブの兄弟ヨハネのほかは,だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て,家の中に入り,人々に言われた。「なぜ,泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし,イエスは皆を外に出し,子供の両親と三人の弟子だけを連れて,子供のいる所へ入って行かれた。そして,子供の手を取って,「タリタ,クム」と言われた。これは、「少女よ,わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって,歩きだした。
毎回,私が音読したあと,各自が黙読し,さらに黙想の時間のあと,分かち合いのときを持つというスタイルで,この聖書研究会はやっているのですが,今回は,なかなか言葉による分かち合いが出てきませんでした。奇跡物語ですから・・・。
そこで,私は,「では,この場面を,みんなで劇で再現してみよう」と提案しました。
台詞を思える必要はありません。みんな聖書を持ったままで構わないと言って始めました。
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ゼミ『自分とつきあう』も余すところあと6~7回となってきた。
年間約25回。受講生3人のゼミ(指導要領では「総合的な学習の時間」)も
メンバー相互の親密度が高くなってきたかなと思った。
そこで,自分自身が,昨年,愛知教育大学のS先生のワークで体験した『肯定的陰口』というワークを実施してみた。
このワークは3人一組で行う。
1人(Aさんとしよう)対2人(Bさん,Cさんとしよう)に別れて,
Aさんの背後に,Aさんからは見えないようにBさんとCさんが座る。
Aさんからは,BさんとCさんは背中の後にいるので見えない。
この状態で,Bさん,Cさんの2人組には,思いっきりAさんの陰口を言ってもらう。
陰口を言われているAさんは,耳をダンボゥにして2人の会話を聴く。
しかし,一つだけ条件がある。
言って良い陰口は,「ほめ言葉」だけである。
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阪神淡路大震災から12年。
勤務校で私が担当している学年では,
週一回のホームルームを,
今週から3回続けて,阪神淡路大震災をテーマに学年で取り組んでいます。
今週(昨日)は,
当日(1995年1月17日)の午後11時以降のNHK総合テレビのニュースを録画し続けた先輩教員からビデオをお借りし,それを視た。
地震報道が一段落したあとのNHK特集や一昨年の10周年を契機に放送された番組のアーカイブにはことかかなかったのだが,
あえて,当日夜のニュースをそのまま視せた。
番組中では,まだ(名付けられていなかったので)「阪神淡路大震災」とは言っていない。
「兵庫県南部地震」と伝えている。
夜11時から翌未明2時前までの約3時間わたるNHKの報道画面を,
重複部分を早送りしながら視た。
同僚教員が,災害そのものの恐怖や対策について話した後,次に私が
生徒たちに,こう問いかけた。
「約12年前の報道番組を視たわけだけれど,
今と決定的に違う点があるのだけれど,なんだかわかる?」
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いつも読んでいただいてありがとうございます。
このブログは,niftyのココログを使用しています。
本日1月16日(火)15:00から,明日1月17日(水)15:00の24時間の予定で,
プロバイダーサイドのメンテナンスが行われます。
メンテナンス中は,記事の更新・削除,皆さんからのトラックバックおよびコメントは受付られません。詳細は,
http://info.cocolog-nifty.com/info/2007/01/116__58e0.html
をご覧下さい。
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私は長年数学の教師をしています。
若い生徒たちは大変に優秀です。
中高生ですから,脳細胞の量も質も私よりずっといいわけです。
しかし,潜在能力は持っているのでしょうが,結局開花できずに,卒業を迎える生徒も見かけます。
私の勤務校は,入学時の(いわゆる)成績でいえば非常に高い生徒が揃っています。
しかし,入学後の数学(他科目もそうなのでしょうが)の力には開きが出てきます。
それは,勤勉さや努力の度合いにも非常に関係しますが,
もう一つ,取り組み姿勢にも関連性があると思います。
現在の勤務校にはほとんどいないのですが,
「で,先生,結局,答はどうなるの?」という姿勢で取り組んで来る生徒の数学の力は,まずつきません。
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ここ2~3日,あるSNS内のコミュニティのトピック(SNS内の掲示板です)で,トラブルに巻き込まれています。
というよりも渦中の一人であると言った方が良いかもしれません。
とにかく,書き込む人々の一部の方は,怒りをそのまま書き込んでいます。
私自身も,怒りを感じたので,一旦コメントを休止しました。
「怒りの表出は悲しみに蓋をするために,その人は行っている」
と聞いたことがあります。
コメントを休止してしまった私は,悲しみに蓋もできずに藻掻いていたりします。
まあ,たまにはこんなことも,ありか!
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タイトルは,私がコミュニケーションの基本においているものです。
なぜならば,人はそれぞれ価値観が異なり,互いに理解しあうことには限界があるからです。
たとえば,私には,私が大切にしている宗教観に関して,私とは180度見解を異にする友人が結構います。
しかし,彼等とは,人によってはもう何十年の付き合いが続いています。
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大学生の頃,教わっていた先生から,
「こんな芝居を観ました。
一人の無言劇(パントマイム)です。
最初だけ,その人は素顔なのですが,
次から次へと仮面を付け替えていきます。
一度きりしか付けない仮面もありますが,
頻繁に付ける仮面もあります。
彼は,とにかく始終,仮面を付け替えます。
しかし,あるとき,疲れてしまった彼は,仮面を外そうとします。
一生懸命両手で外そうとします。
ところが,どうしても,どうしても,仮面が取れなくなります。
仮面を外そう外そうとして藻掻いているところで,幕が降りました」
こんな内容の話を聞きました。
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私のブログのカテゴリーに「サイコドラマ」というのを今年から追加しました。
サイコドラマ(PSYCHODRAMA)は,モレノ(1889-7974)という精神科医が創始した,集団の力を利用したアクション系のセラピー(非言語集団療法)の一つです。
この歳になっても新しく知りたいこと,やりたいことが多すぎて,ちょっと困ってしまいます。
実際,昨日も今日もアフター・ファイブに,それぞれ結構大事な予定が入っていたのですが,どちらも前日にスケジュールを変え,昨日は,サイコドラマのオープングループに参加し,今日は,プレイバックシアターの夜間ミニ講座の参加してきました。前者は私の方から「ディレクター」にアポを取り,後者は,当日の「コンダクター」から直接お誘いを受けたので行ってきました。
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未来に怯えるとき
人は誰もその怯えが現在のものであることに気づかない。
いま怯えている人
実はその怯えは過去の体験を追体験していることに気づかない。
前を向いても怯えてしまう?
わかるな~,その気持ち。
でも,君を怯えさせているのは,
実はバックミラーに写ってるものだよ。
バックミラーが見えるのは,君が前を向いている証拠。
それがあれば振り向く必要はない。
前を向いたまま,来た道を見られるもの。
それがバックミラー。
だからバックミラーはあっていいものだし,必要だよね。
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順応力(あるいは適応能力)が下がってきているとしばしば耳にします。
こんなことをいう子供はいません。
言うのは大人です。
職場の上司だったり,学校の先生であったり。
しかし,なんだか変な気がすします。
明らかに私たちを取り巻く状況は変わってきています。
たとえば,小学生が,まるで「箸でもでも使うかのように」コンピュータを使っています。
この「箸でも使うかのように」コンピュータを使うという言い方は,
先日,ラジオで永六輔さんがしゃべっていた喩えです。
ちなみに,彼はまったくインターネットの仕組みや操作がわからないそうです。
「どうして走っている電車の中でメールが見られるの?電車の中までずっと追いかけてくるの?」
なんて,永さんらしいことを言っていました。
話が逸れましたが,果たして子供たち,あるいは若者たちの適応能力が下がっているのでしょうか?
私はむしろ逆なんじゃないかなあと思ったりします。
だって,私が子どもであったり,若かったりした頃は,
結構,自分と異質の人に出会うと構えました。
たとえば外国人に対して。
今の子どもたちの方が,明らかに私の子ども時代より構えません。
ずっと自然に打ち解けます。
これは,日本に外国人が増えたことも影響していますね。
たとえば,携帯電話。先ほどあげたコンピュータ。
確かに操作は簡単になったとはいえ,
その機能の多様さは数百倍,数千倍になったと言っても良いと思います。
それらを大部分の子どもや若者がいとも簡単に使いこなしています。
マニュアルなんかまず見ません。
第一最近は紙のマニュアルが付いていないものの方が一般です。
仮に付いている分厚いマニュアルがあっても,ほとんど見ません。
なぜなら,彼等は自分がやりたいことがそこに載っていないことを知っているからです。
たとえば,彼のやりたいことは,友だちから聞いたゲームを探してきて自分のケータイにダウンロードすることだったり,誰かのメアドを知ることだったり・・・・。そんなことは分厚いマニュアルの隅から隅まで読んでも書いてありませんから。
でも,彼等は難なくやってしまいます。
何の役にも立たない分厚いマニュアルは部屋の隅で埃を被っているだけです。
逆に中高年層の多くの人は,マニュアルを読もうとします。
真面目なんです。でも,
「マニュアルが分厚すぎて何がどこに書いてあるのかわからない。だから,この機械は使えない」ってことになりがちです。
中にはすごい真面目なオジサンなんかは分厚いマニュアルを1ページ目から順に読んでいったりします。
私はそういう人たちを,全然おかしいと思いません。
なぜなら,かつてはそれが,新しい家電製品・時計・その他の道具を手に入れたときの,絶対的に正しい「作法」だったからです。
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昨日から三日間,グループ・ワークの宿泊研修に来ています。カウンセリング系の学会の研修会です。北は北海道から南は九州まで(残念ながら今回沖縄県はいませんでした),全国津々浦々から教育関係者,教育相談員,医療関係者,医療機関相談員,専門相談機関のカウンセラーが集まってきています。
今回は7つの分科会に分かれていて,私は「演習」の講座のうち,非言語集団的療法(と呼ばれていますが,実際には言語を使わないことはあり得ないので,アクション集団療法と呼ぶ方が良いらしい)のグループに参加しています。いま,「療法」と書きましたが,これは「セラピー」とも呼ばれます。あるいは,教育現場では,「指導」と呼ばれているものの一部だったりします。同じ手法を,医療関係者,相談関係者,教育関係者ではこのように異なった呼び方をします。要するに,(今回の講師の先生の言葉をお借りすれば)業種による方言のようなものです。なお,あまりヒーリングという用語は使いません。癒しという言葉は使われます。
ワークショップ形式の講座の内容は非常におもしろいのですが,いろいろな制約があるため,中心部分をここで紹介することはできませんが,ウォーミング・アップとして行った演習の中で,私にとって,特別意味があるものがあったので,今日はそれだけ書きたいと思います。
『人生ライン』という簡単なエクササイズです。
図のように椅子を螺旋状に並べます。真ん中が0歳(誕生の瞬間)で,最後が100歳です。100歳は,便宜的に死ぬ瞬間の意味も兼ねています。そして,その次に天国と呼ばれている場所があって,ここを表す椅子だけは倒れています。なお,椅子そのものに意味はないのですが,このように椅子を使うことによって,「人生」のラインがイメージしやすいので,椅子が用いられます。これは大変役に立ちます。(「エンプティ・チェア」という手法の一種です)
天国だけ椅子が倒れているというのも意味深です。
以上のような準備の後,先生は,
「さて,皆さん,並んでいる椅子の外側に出てください。
そして,最高の自分をイメージしてみてください。
それは何歳のどの瞬間でしたか?
あるいは,今後最高の瞬間が訪れるとしたら,
それは何歳のときに起こってほしいですか?
たった一つだけイメージしてみて下さい」
と話されました。
ちょっと考える時間が与えられ,
「さて,それではその年齢を表す椅子の横に立ってみて下さい」
と指示されたので,参加者は移動しました。
今回,このセッションの参加者は17人(アクション系のグループとしてはほどよい人数です)でしたが,参加者の皆さんが移動した位置を図中,顔のマークで表しました。
今回の参加者の年齢は20代半ばから,50代以上までと幅広かったのですが,
6~7割方の人が,今の自分よりも若い年齢の位置に立ちました。
さて,私なのですが,何の迷いもなく「天国」に行きました。
意外にも,それは私一人でした。図中で,口を大きく開いて笑っている顔のマークを付けておきました。
この後,先生は,参加者をそこに立たせたまま,立っている年齢が低い順に,
「○○さんは,今あなたは何歳(実年齢ではなく,立っている場所の年齢)で,どんな最高なことが起きてますか」と尋ねていきます。
聞かれた人は,たとえば,
「29歳になって,やっと就職できたときです」(脚色してあります)などと答えます。
私は天国に一人立っているわけですから,聞かれるのは当然最後です。
先生は私には,
「マジスさん,どうしてそこに立っているのですか?」
と,ちょっとそれまでの人とは違う聞き方をされました。私は,
「天国はいいところだと聞いているので」とニヤニヤしながら答えました。
ここで,参加者一同(私も)ドッと笑いました。
それで,おもしろかったのはここからで,続けて先生は,
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強風の中,空を飛ぶ鳩を見て,風がなかったらあの鳩はもっと自由に飛べるだろうにと考えた人がいました。
風とは空気の流れです。
風を受けるということは,風がないときよりも,
より多くの空気を受けるということです。
そして,その空気は,酸素,二酸化炭素,窒素などの分子から成っています。
ですから,風を受けるということは,そのような分子がたくさん衝突してくるということです。
分子がたくさん衝突してくると鳩はうまく飛べないわけです。
ならばいっそのこと,風ではなくて空気そのものをなくしてしまえば,
鳩には何の分子も衝突しないのだから,鳩は自由に飛び回れるかといえば,大間違い。
鳩が飛ぶためには,空気を押さなければならない(その反作用で鳩は飛べる)のですが,空気(つまりいろいろな分子)がなければ,いくら翼を羽ばたかせても,反作用の力が帰ってこないので,まったく飛べません。
これでは,強風のときより都合が悪いわけです。
強風時は確かに飛びずらそうだった鳩も,うまくその風を利用すれば,実は結構,移動する自由度は高いのだそうです。ヨットがただ風の向きだけにしか進めないわけではないことと同じです。
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教師という仕事柄,年賀状をいただく枚数は多い方だと思う。
教え子や卒業生からも送られてくるが,
多くの教員や元教員と年賀状の遣り取りがある。
「教え子を戦場へ送るな。教育基本法・憲法改正反対」
教員仲間や先輩教員からの葉書の隅っこの方に,こんなメッセージが印刷された年賀状が届いていたのは,2,3年前からであった。
残念ながら,今年の年賀状で「教育基本法改正反対」と書いてあるものは一通もなかった。後の祭となってしまったわけだから。
「すべての人の平和を願い
戦争をしない・軍隊を持たない
こんな憲法9条を世界の宝に」(ピース9の会)
カトリックの,ある修道会の総長をされているシスターからの年賀状の下の方には,
このような印刷がされていた。
このシスターからは,もう10年以上も年賀状をいただいているが,
昨年までは,修道会が独自に作った,いわゆる修道会的な,
(つまり,マリア様やイエス様の肖像が画かれ,キリスト教用語が必ず入った)年賀状が届いていた。これはこれでとても趣があった。
しかし,今年は,このシスター(大変国際感覚に優れた方です)から,「憲法9条を世界の宝に」というメッセージ入りの年賀状が届いた。
やっぱり世の中エラいことになってきてしまったのだと思う。
もう一つ紹介したい。
「最近の世の中の動きには不安を感じることが多くなりました。
教育に携わる者の一人として,
自分のできることに力を尽くしていきたいと思っています」
こう年賀状の真ん中に印刷してきた彼(先輩)とは,昨年,生徒を引率して,被爆地長崎を訪れた。(なお,この訪問の折には,アジア太平洋戦争における日本の加害責任についても,同行した神父様が生徒に説いてくださいました。)
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任意の2つの自然数(1,2,3,・・・のことです。日本の中学校の教科書によれば)を選んだとき,一方が他方で割り切れることは,圧倒的に少ないのは当たり前ですよね。たとえば,16と3を選べば,「16÷3=5余り1」となるわけです。18と9とか,100と25のように,たまたま,商が整数になり,余りがでないことの方が,ある意味で(大袈裟に言えば)「奇跡的」なわけです。なぜなら,自然数は無限に存在するのですから・・・。無限に存在する自然数から,任意の(かってな)自然数を2つエイっと選び出したとき,それらの一方が他方を割り切ることなんて,ほとんど期待できないわけです。なんか珍しく数学の先生みたいな(といっても私の職業は数学教師ですが)話をしていますが,ここから書くことはあまり数学と関係ありません。
元旦のブログは,元旦に相応しくなく「コンプレックス」なんてタイトルで書きました。
でも,実はいろいろ考えて,そのタイトルにしました。
その中で,哲学者の中島義道氏の著書『英語コンプレックス脱出』(NTT出版 2004年)から,少し引用しましたが,この本は,比較的平易ながら中身がとても濃い本です。その濃い中身を一言で総括しますと,英語コンプレックスは,人間の持つコンプレックスの一つの露呈のしかたであるということが書かれています。他の何か(英語そのものの場合も含む)に対するコンプレックスの一つの表れであるというのです。中島義道氏は,この本の本文230ページのうち,なんと220ページも費やして,このことを,非常に多くの「日本人論」(多くは新書のような一般向けの本)を年代別に,あるいは系統わけすることによって,読者に説得しています。というか,つじつまを合わせていると言った方が良いかもしれません。しかし,これはけっしてこの本に対する悪口を書いているのではありません。そもそも一般向けの評論とはそういうことをすることだと思います。
そして,残り10ページで,中島氏は,そのコンプレックス一般を解消する「生き方」を非常に簡潔に五つに整理しています。(221ページ)
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今年の"NEW YEAR"は,初めて国外で迎えました。移民(大部分が英国からですが)が52パーセントもいる,その国の港町に6日間滞在したのですが,港ではニュー・イヤーに合わせて大花火大会が催されました。治安は良い方の街だったので,新年のカウントダウンの2時間くらい前から,家族で連れ立って港の方へ繰り出しました。立錐の余地もないほど,港の公園は人・人・人・・・でした。酔っぱらった若い男性が,何人か私の家族(女性4人)に絡んできたりしましたが,そんなに大きな問題にもならずに,やり過ごすことができていました。私たち家族の周囲には,大学生か20代の男女のグループがいて,すぐに打ち解けた雰囲気になりました。この街では,アルコールを「家の前以外」の道路で飲むことが禁止されていると聞いていたので,私は(大好きな)アルコールを持たずに,その花火大会を見に行きました。しかし,この日だけは特別だったようです。私たち家族は,先ほどのグループの中の,ある姉弟と知り合いになり,妻と私は,新年が明ける30分くらい前に,その姉弟から缶チューハイ(みたいなリキュール)をいただいてしまいました。日本人らしく(?)遠慮したのですが,その姉弟が"HAPPY NEW YEAR"と繰り返し言いながら,勧めてくれたので,「サンキュウ・ベリ・マッチ」と日本英語(?)で言いながらいただきました。
そうして,周囲の若者たちと,私の家族で新年のカウントダウンを待っていたのですが,新年の20分くらい前にアクシデントが起きました。 私は突然,背後から何者かに背中を押され吹っ飛ばされたのです! 実は,元々ギックリ腰の状態だったので,その痛みは,気を失う程でした。 2メートルくらい飛ばされましたが,本能的に地面すれすれで体勢を立て直し,かろうじて転倒はしませんでした。しかし,持っていた缶チューハイが次女にかかってしまいました!私は,これも本能的に,背中を突いた者の方を向きました。風貌や鼻の下の髭から,イスラム系の人に似ていました。しかし,定かではありません。体勢を整えつつある私を見ながら,その男は,何ごとか私に罵りの言葉を浴びせながら,歩き去って行きました。
(私はもちろんですが),私の家族と,先ほどの缶チューハイの姉弟はとてもびっくりしました。家族は日本語で一斉に「大丈夫!?」と寄ってきました。即座に,「大丈夫!」と答えました。そして,缶チューハイをくれた姉弟の姉の方も,多分英語で,「大丈夫か?」というような意味のことを言ってくれたのだと思います。なぜ,「思います」と書いたのかというと,私にとっても,周囲にとってもあまりに急であったことと,私の語学力のなさから,彼女が私にどんな言葉をかけたのか,正確にはわからなかったからです。 しかし,間違えなく,「大丈夫か?」という意味のことを言ったと思います。なぜなら,私が,"I'm OK."と言ったのか,"All Right."と言ったのか(これも覚えていませんが),そんなようなことを言ったら,「ああ,良かった」という意味のリアクションをしてくれたからです。
さて,この事件から一日経って,このブログを書いていますが,私を乱暴に突き飛ばした男が,言語で何と言ったのか,わかりません。そもそも何語で怒鳴られたのかもわかりません。また,私を心配してくれた姉弟が何と言ってくれたのかもわかりません。それも何語だったのか?それまで彼等は英語を話していましたから,英語なのでしょうが・・・。 しかし,わかっているのは,私を突き飛ばした男は私が邪魔で敵意を持っていたこと,そして,直前に知り合った姉弟は私を思いやってくれたこと。 どちらも,コミュニケーションがとれていたわけです。もちろん,私を突き飛ばした男性のコミュニケーションの仕方は下手ですし,私は,悲しいし,痛いし,怒っています。ゆるせない気持ちもあります。 しかし,彼と私は明らかにコミュニケートしました。なぜなら,私は,突き飛ばした男にも反応しましたし,心配そうに声を掛けてくれた姉弟にも反応したからです。
ある心理学の本に, "The meaning of your communication is the response that you get." と書いてあります。私が男に突き飛ばされてそのまま倒れ込んでいたら,(あるいは,押されても,まったく微動だにしなかったら,)つまり,無反応だったら,コミュニケーションは成立しなかったでしょう。また,心配してくれた外国人の姉弟に,私が何らかのメッセージを発さなかったら,コミュニケーションは成立しなかったでしょう。しかし,かろうじてどちらにも反応することができました。そして,そのどちらも,言語的な反応ではありませんでした。正確に言えば,何某かの言語は発していたのですが,それ(言語)でコミュニケーションしたとは到底思えません。
そもそも,この一連のコミュニケーションの始まりは,見知らぬ男が,私を突き飛ばすという,極端なボディ・ランゲージから始まったわけです。例の姉弟も私に何と声を掛けたのかわかりません。ただし,明らかに,顔の表情や,座り込んだ私の目線まで下がってきて語りかけてくれた姿勢から,心配してくれている様子が伝わってきました。
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素晴らしいことが待っていると
みんなが向かった空の上にも
涙の出るほどさみしいひとりぼっちと
これが世界だというように
風だけが強く吹く
ああ,むなしさがある
実はいま事情があって国外にいます。ここは夏です。毎日気温が26度くらいに上がります。私は毎日,プールサイドで読書をしたり,ぼーっとしたりしています。
時差は日本より2時間進んでいます。 旅行といえば旅行ですが,違うといえば違います。まあ,人に聞かれれば"Sightseeing"と答えていますが,気分は,(家族的)"Change of air medical treatment"です。
上に書いた詩は,岡本おさみという人の詩で,吉田拓郎という歌手が1973年に歌ったものの歌詞です。考えてみれば,私はいつも歌詞にあるような「素晴らしいことが待っているみんなが向かった空の上」ばかり目指していた気がします。 人生の三分の二を過ぎた今,素晴らしいも素晴らしくないも,ないな~,と思います。あるのは,ただ,準備された道だけ。この道は選ぶ選ばないではなくて,結果的に歩く類のものなのだと思います。
日本に置いてきた我が家の飼い犬と飼い猫のことを娘と妻が横で話しています。
「ぷーちゃん(我が家の猫の愛称)にもこころがあるのかなあ?」と娘。
「あるさ」と妻。
「じゃあ,蟻には」と娘。
「それはないんじゃない」と妻。
こころって何でしょう?こころってどこにあるのでしょう?
確か,どこかの国(民族)に,
『すべての動物は,すべての人より多くのことをわかる』
という意味の格言があったと思います。
日本に帰ったら調べますが,ネイティブ・アメリカン(インディアン)の格言だったと思います。
この「わかる」は頭でわかるのではないでしょう。
この「わかる」はこころでなのでしょうか?
それとも,スピリチュアルになのでしょうか?
頭脳,こころ,スピリチュアル。
これらはどう関係しているのでしょうか?
どう分離しているのでしょうか?
どうダブっているのでしょうか?
往きの飛行機の中に,一冊の本を忘れてきてしまいました。
香山リカさんの『スピリチュアルにはまる人・・・』(・・・の部分忘れました)とかいうタイトルでした。
半分くらい読んだのですが,とてもおもしろい本です。
改めて買い直さなくては・・・。
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どうして私には○○ができないのだろうか?
こんな嘆きをよく耳にします。
○○に入る言葉は,人それぞれ違います。
また,同じ人でも,時によって変わります。
それができないことは,時として,その人にとって,
とても大きな問題となります。
悩んだり,嘆いたり,劣等感を感じたり,焦ったり。
それくらいならいいのですが(そうはいうものの辛いです),
○○ができないことで,将来が閉ざされた気持ちになり,
どうやって生きていこう,もう生きることはできない,
そんな気持ちにさえなったりします。
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クリスマスの今日,たくさんのサンタさんに会いました。コンビニでも,デパートでも,街角でも・・・。
昔からサンタさんは子供たちにとって,一番ほしいもの,一番必要なもの,一番大切なものを持ってクリスマスの夜,そっとやって来ます。そう,クリスマスは一番ほしいもの,一番必要なもの,一番大切なものがもらえる日なのです。
なぜクリスマスはそういう日なのでしょうか。
それは,神様が一番大切なもの,つまり愛そのものを,人類に贈ってくださった日だからなのです。
今から約2000年前,羊飼いたちが野宿をしながら羊の世話をしていると,神様に遣わされた天使が現れました。そして,羊飼いに次のように告げました。
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昔親友が,
「自転車に乗っているときに,
側溝に落ちないようにと,側溝ばかり見ていると,
側溝に落ちてしまう」と言っていた。
その友は,前を向いて走ることの大切さを僕に教えてくれた人だ。
今は親しくないので,親友ではないかもしれないが,
心の中ではいつでも会っている「真友」だ。
「側溝に落ちないように」という目標は,
「○○しないように」という否定形の目標だ。
このような目標はどうやら功を奏さないらしい。
「試験で悪い点を取らないように」
「飲み過ぎないように」
「事故に遭わないように」
「明日,寝坊しないように」
・・・。
同じように,
「○○すべきである」という目標も達成できない。
「次の試験では前回よりも良い点を取るべきである」
「飲み過ぎないようにすべきである」
「安全運転すべきでだ」
「遅刻しないように起きるべきだ」
目的を達成するとは,自分が変貌するということである。
変貌は,"I Want to・・・"と思っているときだけ起こる。
そんな話を最近聞いた。
だから目標の立て方は大事。
「次の試験では良い点をとりたい」
「お酒は適度に楽しく飲みたい」
「相手も自分も安心できる運転をしたい」
「明日は早起きしたい」
なんかそうかもしれない。
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今朝,長女と車に乗っているときに,
カーオーディオで長女が聴いていた歌の歌詞だ。
私は思わず,
「この曲何ていう曲?誰が歌ってるの?」
と聴いてしまった。
娘は,「あゆ!なんて読むのか分からないけれど,アルタナかオルタナ」と答えてくれた。
なるほど,英語のalternativeのことかと思った。
日本語でもアルターナティブって最近よく使うけど,ちょっと分かりづらい。
だいたい,「代わりになるもの」,「とりうる手段」,転じて,「選ぶべきもの」という意味に使われている。
冒頭の歌詞がどうしても気になったので,
娘に頼んで,もう一度最初から聴かせてもらった。
(右の写真は,その車の中から見た景色。
逗子海岸で信号待ちの最中にケータイで撮りました。
海越しに富士山が見えるのわかりますか?
実物はきれいでしたよ。)
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僕はしょっちゅう人を羨む。
妬むと言ってもいいかもしれない。
僕の関心は専ら人間関係にある。
日常の中で,
市場原理を学んでいない人(僕もそうですが)が「あいつは営利目的だから」と言うのを耳にする。
確かにその発言をした人は営利目的で行動していない人だ。
でも,代々受け継いだ広大な土地の持ち主だったりする。
羨ましいなあ~。
「人間関係」と縁のない人から「あいつの家庭には問題がある」と言うのを耳にする。
そう言った人の家庭は確かに円満だ。
それはそれでいいか~。
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11月14日から,朝日新聞に連載されていた「いじめ(られ)ている君へ」という連載記事が,今日の朝刊でようやく終わった。
初回の児童文学者から始まって,各界の著名人(たとえばノーベル物理学賞受賞者)が
連日それぞれの立場から,現在,学校で起こっているいじめ問題に的を絞って,
主に「励ましのメッセージ」や「自分の体験談」をご披露されていた。
私(学校勤務)の周囲でも朝日新聞購読者は,他紙よりかなり多い。
そんな中,この「いじめ(られ)ている君へ」はすこぶる評判が悪かった。
朝日本社もそれは理解していたようだ。
緊急連載を始めたのが11月14日だったが,
関係者によると,(著名人に依頼したものの)とても掲載するのに耐えない記事も数編あって,
肝いりで連載を始めたにも関わらず,休載にせざるを得なかった日もあったという。
私は以前にも書いたが,今回の連載は失敗に終わったと思う。
それは主に,自分が生きぬいた体験談を,後から続く人に押しつけたものがあまりに多かったからだ。
いくら辛い体験を疲労し,自分がそれをどう乗り越えたかを語っても他人の力にはならない。
しかし,これは朝日新聞社に問題があるのではない。
むしろ,この国の中で発言力のある人たちの多数が強者の論理で,
そして特に年長者は加えて時代倒錯でしか現状を考えられないということが
今回の記事を通じて読み取れたように思う。
しかし,本当は
The Map is Not the Territory! なのである。
「私もです」。
なんか肯定的メッセージに聞こえるかもしれませんが,
こんなことで相手と意気投合できるのは,
せいぜいスポーツ観戦のときくらいです。
スタジアムに観戦に行った浦和レッズのファンが,隣の席の人もレッズのファンだと知ったら意気投合して一緒に応援するでしょう?
それは楽しいことですよね。
だから,スポーツ観戦では時々「ウェーブ」なんていう日常生活では起こりえない現象が起こります。
しかし,これが好きな芸能人となると若干違ってきます。
SMAPのコンサートに行ったとき,隣席の人が,いくら同じSMAPファンでも,
スポーツ観戦のときのような意気投合感は起こりません。
これはおそらく,スポーツ観戦と芸能人に惹かれることの微妙な心理的側面の違いに起因していると思われます。
浦和レッズのファンは浦和が優勝すればただただ嬉しいと思えますが,
芸能人が有名になったり幸せになると,どこか気持ちがさめたりすることもあります。
さらに,これが身近な人間関係ともなれば,「私もです」はしばしばコミュニケーションを遮る言動となりかねません。
話を単純化します。
たとえば,ある人が腹痛を訴えてきたとします。
どうしますか?
「大丈夫ですか?」とか「薬ありますけど飲みますか?」と聞くでしょう?
ここで,「私もそうなんです」と応えられてしまっては,
会話が別の方向へ流れてしまいます。
この瞬間,話の中心が入れ替わってしまいます。
つまり話の主人公がそれまでの話し手から聞き手に移ります。
これでは,はじめに腹痛を訴えた人は脇役になってしまうのです。
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君はエアポートを見たことがあるだろう?
飛行機が飛び発つには長い滑走路が必要だよね。
特に遠くへ飛んでいく大型機の場合には。
長い間停泊していた君にはたくさんの人や荷物が詰まっている。
重いよね。
だから君には長い滑走路が必要だ。
でも,あわててはいけない。
管制官の許可が出るまでは動いてはいけない。
君の管制官は誰だい?
僕の管制官?
ちょっと照れくさいけれどね・・・,それは神さまだよ。
でも,君には君の信じる管制官がいるだろう?
その管制官と交信すればいい。
信じられる管制官がいないならば,君自身が管制官を兼ねるしかないだろう。
それだって,一つの生き方だよ。
世の中に悪い生き方なんてない。
管制官の許可が出たなら,滑走路に向かおう。
大丈夫。僕か誰かが滑走路までは誘導するから!
でも,滑走路から飛び発つのは,君の仕事だ。
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