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2005年9月11日 (日)

赦し、ゆるし

yurusi 皆さん、選挙に行かれましたか?私も午後4時前に清き一票を投じてまいりました。

さて、今日の日曜日、カトリック教会では、「年間第24主日」にあたります。ミサ中の聖書朗読箇所は、第一朗読が『シラ書』27.30~28.7。内容は、「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される」というもの。

第二朗読は『使徒パウロのローマの教会への手紙』14.7~9。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものである」という内容。

そして、福音は『マタイによる福音』18.21~35が読まれた。中心メッセージは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。

つまり、今日の聖書朗読は「ゆるし」がテーマ。

聖書にはゆるしについてたくさん書かれている。キリスト教はゆるしについてたくさんの教えを説く。そして、カトリックでは、「ゆるしの秘蹟」という儀式(?)がある。「告解」とも呼ばれている。

人間にとって、ゆるしてもらえないことも辛いが、実はゆるせないときの方がもっと辛く苦しい。「地獄とは人をゆるせないことである」と諭してくれた司祭もいる。なぜゆるせないとこんなにも苦しいのか?それは「ゆるす」も「ゆるさない」も神のみがおできになる御業だからではないか?ゆるすこともゆるさないことも、人間の不自由で弱い心ではできないのに、それをしようと思うから辛くなる。だから、憎くてゆるせない気持ちがあったら、その心をそのまま神に明け渡せたら、きっと、そう、きっと楽にラクになる。でも、それさえもお恵みによるのだろうね。

第一朗読の『シラ書』に「自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ」と書いてある。う~ん。それでもまだ「ゆるせない」と思う人の顔が1つ、2つ浮かんでしまう。本当に自分が死ぬときもその人たちのことを思い出すのだろうか?

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コメント

ctさん、TBをありがとうございます。
〔きょうのことば〕に記しましたが、イエス様と共に十字架に架けられた男は、私の憧れです。彼は人生の最後の機会をとらえて、回心できたのですから。

投稿: jyakuzuregawa | 2005年10月24日 (月) 22時36分

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受信: 2005年10月24日 (月) 22時28分

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