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2005年9月25日 (日)

主の道は正しくない

050925 カトリック教会では、今日は「年間第26主日」。

第一朗読は『エゼキエルの預言』18章25~28節。要旨は「悪人が自分の行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる」というもの。

第二朗読は『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』2章1~11節。中心は2節から5節で、引用すると、

同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

そして、福音朗読は『マタイによる福音』21章28~32節。イエスが、当時の宗教的リーダーであった祭司長や長老に、次のように問うた。

ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。(28~31)

今日のキーワードは、29節の『考え直して』という言葉。父の望みに対して、『承知しました』と言いながら、その通りにしなかった弟と、最初は『いやです』と答えたものの、後で『考え直して』出かけていった兄。神はこのように考え直した者を喜んで受け容れる。つまり、後から来た者、遅れてきた者を、まるで依怙贔屓しているかのように喜んで受け容れる。

第一朗読も同様だ。冒頭に書いた「悪人が自分の行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる」の後には、「彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから・・・」と続く。『主の道は正しくない』(エゼキエル18.25)という人々に対して、主が言われた言葉だ。

これは、先週のぶどう園の労働者のたとえ話(『マタイによる福音』20.1~16)にも相通ずるものがある。あのときもそうだった。朝からずっと働いた者にも、夕方から少しだけ働いた者にも、同額の報酬を与えた。それで、朝から働いていた者は、遅く来て少ししか働かなかった者と同様の扱いしか受けなかったことに抗議した。それに対しての主のお答えは、『わたしの気前のよさをねたむのか』だった。「わたしは最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」。主はそういうお方である。その主に向かって、人々は言う。『主の道は正しくない』

『主の道は正しくない』。「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所。カトリック教会のミサで用いられるミサの式次第。毎週発行される。冒頭の画像は今週の表紙。画像をクリックすると大きくなる)には、「悪人の回心を喜び、正しい人の不正に対して厳しい神について、人間はこう(主の道は正しくないと)考える」と解説されている。

主の道の正しさをパウロは今日の第二朗読の中で伝える。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」。主の気前のよさをねたんではならない。もっと単純に言えば他人をねたんではならないとパウロは獄中からメッセージしている。実はこの単純な命題が、私にはもっとも難関の課題なのだが。

「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と道を示す。無実の十字架上の苦しみの中で、イエスは隣で十字架に張り付けられていた盗賊に楽園へ入ることを約束された。盗賊が最後に『考え直した』からであった。

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