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2005年9月 9日 (金)

罪と罰

tumitobatu 『罪と罰』というと、真っ先にドストエフスキーの小説を思い出すけれど、あの小説を原題通り訳すと『犯罪と刑罰』となるらしい(五木寛之&森一弘『神の発見』平凡社)。同じ本の中で森師は、聖書の説く罪とは、「(倫理道徳の善悪でなく、)自分に幸せをもたらしてくれるものを善とし、そうでないものを悪とする態度に、味をしめてしまう」ことだと語っている。

遠藤周作は『沈黙』の中で、「人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れること」だと言っている。

「私の頭は禿げているでしょう。だから私の後ろに歩く人は私の頭が眩しくて迷惑しているかもしれない。しかし私は背中に眼はないから、その人に気づかない。こういうことを罪という」とおっしゃっていたのは、現在はローマにいる偉い神父様だった。

罰はどうか?『犯罪と刑罰』なら、刑罰は犯罪の結果として存在する。でも、キリスト教の説く『罪と罰』は因果律では説明がつかない。マルクス主義からキリスト教徒に転向した椎名麟三は、因果律ではない『罪と罰』を鋭く説いた。「キリストを知らないということは罪だ。そしてその罪が罰であることは、キリストを知っている者には、いやというほどわかるのである。」(『私の聖書物語』1957年)

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