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2005年9月18日 (日)

ああ人生に涙あり

25shujitu ♪人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る
歩いてゆくんだ しっかりと 自分の道をふみしめて

人生勇気が必要だ くじけりゃ誰かが先に行く
あとから来たのに 追い越され 泣くのがいやならさあ歩け

人生涙と笑顔あり そんなに悪くはないもんだ
なんにもしないで生きるより 何かを求めて生きようよ♪

ご存知、水戸黄門の主題歌『ああ人生に涙あり』の歌詞である(作詞:山上路夫)

さて、今日、カトリック教会は「年間第25主日」。
聖書朗読箇所は、第一朗読が『イザヤの予言』55.6~9。
この箇所は、神の高い思いを告げる、旧約聖書中でも有名な箇所。
全文、引用すると、

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」

つまり、聖書はここで、神の思い、お計らいは、
私たちの想像をはるかにはるかに超えていると教えてえいる。

第二朗読は、『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』1.20~24と27。
パウロが獄中から、「私にとって生きるとはキリストである」とメッセージする。

福音朗読は、『マタイによる福音』20.1~16。
ここも有名な箇所で、「ぶどう園の労働者」の譬え話。
おもしろいので、全文引用する。

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

もちろん、ここでぶどう園の主人は神、労働者は人々と考えられる。
神は、多く働いた人に対しても、少ししか働かなかった(働けなかった)人にも対しても、
同じ恵みを与えるというのだ。
当然、多く働いた者からは不平が出た。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』と。
そこで、主人(神)の返答は、

わたしの気前のよさをねたむのか

つまり、多く働いた者に、神の良さに気付くよう警告する。
神が要求したのは弱者への配慮ではないだろうか?
一時間しか働かなかった者は、実は
一時間しか働けなかった者かもしれない。
「甲斐性なし」だったのかもしれない。
神はそうしたものにも恵みを与える。
少しでも神に捧げた者は報われるのだ。
そして、そうした者こそ神の助けを必要としているから、
この譬え話でも、「最後に来た者」の方に先に賃金が渡されるという
神の恵みに与った。

考えてみれば、これは教育の現場では普通に行われていることだと思う。
私は数学教師だが、生徒に問題を解かせるとき、
早く出来た生徒にも、時間がかかってやっとできた生徒にも
同じように「マル」を付ける。
そして、むしろ、時間がかかって最後にやっとできた生徒に
「マル」を付けるときの方が嬉しい。

もちろん、私が神の真似をしているなどどいうことを言いたいのではない。
実は、この「ぶどう園の労働者」の譬え話は、意外と受け容れられない箇所なのだ。
特に、能力主義、成果主義の社会では。
しかし、実際に、この神の論理が働いているのが教育現場であり、
もしこの神の論理が教育現場で働かなくなったら、危ない。

さて、私は、この福音箇所、特に、
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」
というところを読むと、冒頭の水戸黄門の主題歌中の
♪あとから来たのに 追い越され♪
を必ず思い出す。ドラマそのものは見ていないのだが。

蛇足だが、3番の歌詞の最後。
♪なんにもしないで生きるより 何かを求めて生きようよ♪
については、何かを求めるにこしたことはないが、
なんにもしないでも生きていくことそのものに価値があると、私は思う。

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