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2005年10月15日 (土)

Men for Others

このページからもリンクを貼らせていただいていますが,jyakuzuregawaさんのブログ『たのしいことば?』では,毎日「きょうのことば」として聖書のみことばが紹介されています。jyakuzuregawaさんは,ブログ開設初日のみことばとして,コリントの信徒への第一の手紙12章24節より神は,見劣りのする部分をいっそう引き立たせて,体を組み立てられました。といういう聖句を紹介しておられます。この前後の12節から31節はしばしばキリスト教的社会観と呼ばれています。新共同訳から引用ますと,

体は一つでも,多くの部分から成り,体のすべての部分の数は多くても,体は一つであるように,キリストの場合も同様である。つまり,一つの霊によって,わたしたちは,ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと,奴隷であろうと自由な身分の者であろうと,皆一つの体となるために洗礼を受け,皆一つの霊をのませてもらったのです。体は,一つの部分ではなく,多くの部分から成っています。足が,「わたしは手ではないから,体の一部ではない」と言ったところで,体の一部でなくなるでしょうか。耳が,「わたしは目ではないから,体の一部ではない」と言ったところで,体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら,どこで聞きますか。もし全体が耳だったら,どこでにおいをかぎますか。そこで神は,御自分の望みのままに,体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら,どこに体というものがあるでしょう。だから,多くの部分があっても,一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず,また,頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか,体の中でほかよりも弱く見える部分が,かえって必要なのです。わたしたちは,体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って,もっと恰好よくしようとし,見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には,そうする必要はありません。神は,見劣りのする部分をいっそう引き立たせて,体を組み立てられました。それで,体に分裂が起こらず,各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば,すべての部分が共に苦しみ,一つの部分が尊ばれれば,すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり,また,一人一人はその部分です。神は,教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒,第二に預言者,第三に教師,次に奇跡を行う者,その次に病気をいやす賜物を持つ者,援助する者,管理する者,異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは,もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

現代は多様化の時代といわれ,教育においても個性の尊重が叫ばれます。しかし,人間は個性の尊重が苦手なようです。ついつい自分と同じような個を個として認め,少しずれるともう認めずに,外したがる傾向があるようです。ちょっと「多数派」と違った存在を「きも~い」の一言で自分たちの外側に置き,同調しあい,安心しあいます。特に,私が数年前まで関わっていた女子中高生にその傾向が強いようで,心苦しくなることが毎日のようにありました。彼女たちは,まるで外されないようにするためにあくせくしているようでした。みんなと違ってはいけないから,茶髪にし化粧をし,大声で乱暴な言葉で話し,家にいても,風呂に入るとか寝るということまでメールでで誰かに伝え・・・。このことが良いとか悪いとかいう問題ではなくて,とても気の毒です。みんながみんなというわけではないのでしょうが,こうしなければいられないような人との関わり方しかできなくなっているようでした。次から次へといろんなブーム---今ならお笑いブーム---がやってきて,それに乗り遅れることは,この子たちにとっては,友達関係の喪失を意味します。しかもその友達関係は希薄です。

子どもたちはそんな空しい人間関係の中で生きてます。ある年齢層以下の大人たちも同じかもしれません。そして,私たちはその希薄さ空しさにうすうす---あるいは完全に---気づいていながらも,そんな細いものでもいいから他人とのつながりを求めています。

他人とつながっていたい。他人から愛されたい。他人を愛したい。これは人間のもっとも人間的な欲求,人間らしさです。この欲求は突き詰めれば,「人は他人のための存在」=”Men for Others”というイエズス会教育の理念にも繋がります。

上記の聖書の箇所では,社会を一つの体にたとえて,人間同士がどうお互いをとらえていくべきかを教えています。

人は一人一人違うから,意味があります。もし同じだったら存在しないでしょうし,つき合う意味もないでしょう。自分と同じ人と関わり合ったところで,何も変わりません。一人でいても同じです。考え方や働き・役割が違う者同士が互いに尊重し合ってこそ,すばらしい本当の人間関係が成立します。上の聖書のたとえでいえば,多くの部分からなる一つの体ができあがります。

そして,さらに重要なことは,「体の中でほかよりも弱く見える部分が,かえって必要なのです」(22節)という教えです。だから「神は,見劣りのする部分をいっそう引き立たせて,体を組み立てられ」(24節)た訳です。

これまで人類の歴史は,強者が担ってきた。弱者排除の歴史でした。個性が尊重される多様化の時代にあって,神が他よりも引き立てて組み立てられた大切な部分が,私にも引き立って見えるように,目を開いていなければなりません。

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コメント

ctさん、こんにちは。
リンクとすばらしい記事をありがとうございました。
私たち親子は「少数派」の側に立っています。
難聴(障害としては人数は少ないのです)であること、そしてカトリック信者であること。どちらも、はずそうと思ってもはずせません。
でもそれを逆手にとって、しぶとく生きてゆこうと思っています。

投稿: jyakuzuregawa | 2005年10月17日 (月) 01時22分

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昨日、相互ブックマーク(リンク)をしている、ctさんから私のブログ初日の「聖書のみことば」についてリンクをいただきました。 ctさんは、すばらしい意見を書かれています。    5月にブログを始めた頃を振りかえり、もう一度なぜ聖書のあの箇所を引用したのかを考えてみました。   〔コリントの信徒への手紙一 12章24節〕 「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」  何か心にひっかか... [続きを読む]

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