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2005年10月 9日 (日)

婚宴の礼服

051009日曜日恒例の,ミサで読まれた聖書箇所について。

今日は「年間代28主日」。第一朗読は『イザヤの預言』25章6節~10節前半。要旨は,「主は祝宴を開き,すべての顔から涙をぬぐって下さる」というもので,「聖書と典礼」(写真)によれば,「バビロン補囚からの解放を待ち望む中で」「祝宴のイメージとともに,神が最終的に完成してくださる救いを語る」。今日の福音朗読中の婚宴は,ここでの祝宴と同一イメージ。

第二朗読は『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』4章12~14節と19節~20節。13節「わたしを強めてくださる方のお陰で,わたしにはすべてが可能です」がここではパウロの中心メッセージ。

福音朗読は,『マタイによる福音』22章1~14節。全文引用する。

イエスは,また,たとえを用いて語られた。「天の国は,ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り,婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが,来ようとしなかった。そこでまた,次のように言って,別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って,すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし,人々はそれを無視し,一人は畑に,一人は商売に出かけ,また,他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し,殺してしまった。そこで,王は怒り,軍隊を送って,この人殺しどもを滅ぼし,その町を焼き払った。そして,家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが,招いておいた人々は,ふさわしくなかった。だから,町の大通りに出て,見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで,家来たちは通りに出て行き,見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので,婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると,婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は,『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると,王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って,外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない。」

この箇所は何度読んでも読後感が悪い。その原因は,王の催した婚宴の席の中,礼服を着てこなかった者を見つけた王が,その者にした仕打ちがあまりにむごいからだ。王は側近に,この男の手足を縛って外の暗闇に放り出せと命じた。しかも「そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と,ずいぶんなことを言っている。出て行かせるだけではなくて,「手足を縛って」放り出すのだから,その者はその縄がほどけない限り,遠くへ逃げていくこともできないし,悔い改めて謝りに戻ることもできない。手足を縛られたまま,中の楽しげな宴の様子を耳にするしかないのだ。

そんなにこの男のしたこと---婚宴の席で礼服を着ていなかったことが悪いのか。というより,なぜこの男だけが「婚礼の礼服」を着ていなかったのか。テキストに沿って考えてみたい。

王は神のことで,婚宴は神の国の完成の姿を表す。まず最初,「王は家来たちを送り,婚宴に招いておいた人々を呼ばせた」(3節)。つまり,あらかじめ招待しておいた人々のところに,わざわざ家来を送り一人一人呼んだのである。これを2回行っているが,人々は「畑」,「商売」に象徴される現世的な利益を優先し,招きに応えなかった。物騒な話だが,人々に殺された家来もいる。神の国が準備できていることを知っていた家来たちは,多分,しつこく誘ったのだろう。しかし,それがうるさくて人々は神からの使者を殺してしまった。鈍感になっていた人々は,家来たちが神からの使者だと気づかなかったのだろう。それよりも生活を優先させた。そんな人々を,神は容赦しない。町ごと焼き払ったという。これは当時の祭司長や長老に対してイエスが語ったたとえ話だ。神の招きを拒み続ける彼らを見て,神の招きを拒み続けていくと破滅に至るということを,神であるイエス自身が教えられていると見るべきだろう。

さて,誰も来なかった招待客に代わって招かれたのは,「町の大通り」(9節)にいた「善人も悪人も皆」(10節)だった。ここを読むと安心する。結局,神はすべての人を憐れみ,神の国に招いてくださっていると取れるからだ。

しかし,最後にどんでん返し。その中に一人だけいた婚礼の礼服を着ていない者が摘み出された。彼には礼服がなかったのか?いや,違う。彼も他の人も皆,大通りを通りかかっただけの人々だった。悪人,善人に関係なく礼服なんて用意していなかったはずだ。「聖書と典礼」によれば,「婚礼の礼服」とは,神の国に入るにふさわしい行いのことを指しているという。しかし,通りがかりの人々(悪人も善人も)が,そんな,神の国にふさわしいような「礼服」を持っていたのか。善人は持っていて,一人だけの悪人は持っていなかったという解釈は当然無理がある。そもそも人を善人と悪人の2種類に分けて考えることはできないし,仮にできたとしても,善人に分類される人は果たしているのだろうか。全能の神にはすべて知られている。

さて,それなのに,一人を除いて全員が「婚礼の礼服」を着ていたとはどういうことか?考えられることはただ1つ。この「婚礼の礼服」もまた祝宴の食事同様,神ご自身が一人一人のためにご準備してくださっていたのだ。「婚礼の礼服」は神の国の入口で一人一人に手渡される。(ちょっと逸れるが,このとき神ご自身が、「こんなひどい世界と苦しい人生を与えてしまって申し訳なかった」と謝るそうだ。9月12日の裁く神、ゆるす神、謝る神参照。)そこで,自分の罪深い人生を思い出し,こんな私にも,こんなに立派な「婚礼の礼服」が用意されていたと喜んで袖を通し,喜んで婚宴の席に着きなさいとこの譬え話は教えている。すると,外に摘みだされた男はどんな人だったのか。思慮が浅く,自分などに「婚礼の礼服」が与えられることにありがたみを感じない傲慢あるいは鈍感な男だった。あるいは,自分の悪さを他の人より深く知っていて,神から与えられてもなお,「婚礼の礼服」を着るほどの価値はないと考えていたのか。その男は「黙って」(12節)いたのでわからない。

鈍感か,神から認められても自分の価値を認められないか。私は両方に分類され得る。だからこの箇所は何度読んでも読後感が悪い。この世で何度も着た「婚礼の礼服」の着心地の悪さが原因なら良いのだが・・・。

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コメント

こちらでははじめまして
プロテスタントからカトリックに改宗しようとしてますくえちゅん飼育係です
今日、婚宴の礼服についてでしたね
うちの神父様は
「愛の礼服を着なさい」とおっしゃってました
あいのれいふくかぁ・・・努力しようっと(;^_^A

投稿: くえちゅん飼育係 | 2005年10月 9日 (日) 20時08分

くえちゃん飼育係さん。早速,こちらにも来てくださり,ありがとう。そちらの神父様は「愛の礼服」とおっしゃったのですね。わかりやすい言葉ですね。ただし,実践するとなると・・・,僕などは自分の精神力のなさに辟易とします。やはり,実践するにも,神様の支えが必要ですね。
>あいのれいふくかぁ・・・努力しようっと(;^_^A
にくえちゃん飼育係さんのまじめさが現れていらっしゃると感じました。

投稿: ct(管理者) | 2005年10月 9日 (日) 21時24分

ctさんこんばんは。
私のブログにもコメントをありがとうございました。
リンクもありがとうございます。私もリンクをさせてください。

今日の福音説教ですが、私の教会では、つまみ出された人=洗礼を受けたのに、教会から遠ざかっている人、との解釈でした。せっかく神様から秘跡という礼服をを戴いたのに、自分から礼服を汚しているようなものだという展開で、最後には皆さん教会に集いましょうとなりました。
 私個人の考えですが、神様は礼服を汚してぼろぼろにしても、ごめんなさいと心から謝れば、婚宴に入れてくださるのではないか、と思います。甘い考えかもしれませんが。

投稿: jyakuzuregawa | 2005年10月10日 (月) 00時16分

jyakuzuregawa様。
コメントありがとう。
>神様は礼服を汚してぼろぼろにしても、
>ごめんなさいと心から謝れば、
>婚宴に入れてくださるのではないか、
>と思います。
はい。僕も同感です。
それが語られたのが,先週までの(遅れてきた者や悔い改めた方を優先してきた)ぶどう園の主人の譬え話でしたものね。

投稿: ct(管理者) | 2005年10月10日 (月) 00時54分

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