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2005年10月 2日 (日)

私にとって信じるとは

051002 今日のカトリック教会「年間第27主日」の聖書朗読箇所は,第一朗読が『イザヤの預言』5章1節~7節。要旨は「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」。

第二朗読は『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』4章6節~9節。この朗読箇所の直前である4章5節の後半で,パウロは「主はすぐ近くにおられます」と力強く語り,今回の朗読箇所でも,「平和の神はあなたがたと共におられます。」と締め括る。

福音朗読は『マタイによる福音』21章33節~43節。3週連続してぶどう園の譬え話だが,今日は,「最後に,主人(父なる神)は自分の息子(イエス)を送った」という話。全文引用すると,

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕(しもべ)たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

この譬え話は比較的わかりやすいか。農夫たちは当時の民の指導者たち(および民衆),主人は父なる神,2回送られた僕(しもべ)たちは旧約の預言者たち,息子はイエスのことを指す。この短い譬え話で,イエスご自身が,

  1. 「自分の息子を送った」父なる神の愛の大きさ
  2. 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」自らのメシアとしての使命
  3. 「ふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と神の国のへの招きの恵み

を告げている。

ところで,今日の第二朗読にみられるパウロの力強さはいったいどこから来るのか?「主は近くにおられます」。イエスが言うのならわかる。なぜなら彼は神の子だったのだから。あえて誤解を招くような表現を使えば,イエスは神を「信じて」いるのではなかった。正確に言えば,信じる必要がなかっった。彼は自分が神の子であり,父が(そしてご自身が)神であることを「知って」いたからだ。この差は大きいし,これが神と人間を分かつ一線だろう。

私たちは知っていることや見えているものは,「信じる」必要はない。わからないことや見えないものこそ「信じる」に値する。ただし,盲目的にではない。やはり,何らかの根拠が必要だ。その根拠だが,パウロにはあった。ダマスコで復活したキリストと遇ったからだ。そのとき,彼は3日間,目も見えず,食べることも飲むこともできなかったという。しかし,目からうろこのようなものが落ちて(使徒9章18節),それまでキリスト教徒を迫害していたパウロは以後,最も強烈に,広範囲に福音を述べ伝えるものとなっていった。

さて,私は何を根拠に神の働きや恵みを信じているのか。やはりパウロと同じように復活したキリストに遇ったのか。いつも自問自答するが,答に窮する。「その通り」とは言い切れないが,「いいえ」とも言い切れない。だから信仰を持つ必要があるし,信仰が持てれば希望も湧く。しかし,このように私が思うのも「主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」(マタイ21章42節)恵みだ。

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