知恵の書
知恵は輝かしく,朽ちることがない。
知恵を愛する人には進んで自分を現し,
探す人には自分を示す。
求める人には自分の方から姿を見せる。
知恵を求めて早起きする人は,苦労せずに
自宅の門前で待っている知恵に出会う。
知恵に思いをはせることは,最も賢いこと,
知恵を思って目を覚ましていれば,心配もすぐに消える。
知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き,
道でその人たちに優しく姿を現し,
深い思いやりの心で彼らと出会う。
上の文章は,今日のカトリック教会「年間第32主日」の第一朗読として読まれた箇所です。出典は『知恵の書』6章12~16節。『知恵の書』は旧約聖書続編としてカトリック教会では正典としていますが,プロテスタント教会では,旧約聖書続編(15編もある!)は聖書として認めていません。しかし,この『知恵の書』。神について大変分かり易く教えられている箇所が多いので,聖書の中で私の一番好きな書です。中でも好きなのは11章後半ですが,その話は今度にとっておきます。
「神は輝かしく,朽ちることがない。神を愛する人には進んで自分を現し,探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。神を求めて早起きする人は,苦労せずに自宅の門前で待っている神に出会う。神に思いをはせることは,最も賢いこと,神を思って目を覚ましていれば,心配もすぐに消える。神は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き,道でその人たちに優しく姿を現し,深い思いやりの心で彼らと出会う。」
どうですか,この文章。気づかれたと思いますが,冒頭に引用した『知恵の書』文中の「知恵」という言葉をすべ
て「神」に置き換えただけ。神様について,実によく表現していると私は悦に入っています。それもそのはずです。同書7章25~26節には,「知恵は神の力の息吹,全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから,汚れたものは何一つその中に入り込まない。知恵は永遠の光の反映,神の働きを映す曇りのない鏡,神の善の姿である。」とあり,ここでの「知恵」は単なる「人間的な賢さではなく,神的なもの」(今週の『聖書と典礼』。写真)なのです。
第二朗読は,『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙一』4章13~18節。要旨は「神はイエスを信じて眠りについた人たちを,イエスと一緒に導き出して下さる」という終末思想。これに関するお話しとして,大和カルバリーチャペルの先々週(10/23)の礼拝における大川牧師のメッセージ(カトリックでは説教というが)を紹介したいと思います。大和カルバリーチャペルは独立教会ですが,1000人規模の礼拝を誇る国内でも最大級のプロテスタント教会のようです。大川牧師のメッセージを,ここ数年聴いていますが,ヘンリー・ナウエン神父の本からの引用もときどきあり(尤もカトリックのヘンリー・ナウエン神父は,元々聖公会で評価が高かった),最近は,日本における初期のイエズス会士の働きや,キリスト教禁制下の隠れ切支丹について,非常に高く評価し,また,毎回の礼拝でも,祈りの中に「カトリック教会のために」も祈っています。リンクを貼ったのは約1時間半の礼拝のビデオですが,真ん中30~40分くらいが牧師様のメッセージです。ちょっと,ご自分の著した小冊子『「死の壁」を超えるもの』に関するPRが多いのが最初は気になるかもしれませんが,是非聴いてみて下さい。パウロを通して語られた神の救いのメッセージについて「無知でいてほしくない」と熱く語っておられます。
福音朗読は『マタイによる福音』25章1~13節。全文引用する。
(そのとき,イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。) 「そこで,天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って,花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで,五人は賢かった。愚かなおとめたちは,ともし火は持っていたが,油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは,それぞれのともし火と一緒に,壺に油を入れて持っていた。ところが,花婿の来るのが遅れたので,皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで,おとめたちは皆起きて,それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは,賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより,店に行って,自分の分を買って来なさい。』 愚かなおとめたちが買いに行っている間に,花婿が到着して,用意のできている五人は,花婿と一緒に婚宴の席に入り,戸が閉められた。その後で,ほかのおとめたちも来て,『御主人様,御主人様,開けてください』と言った。しかし主人は,『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから,目を覚ましていなさい。あなたがたは,その日,その時を知らないのだから。」
イエスは終末をを結婚式に譬えて語っておられる。10人のおとめたちは皆,神の国に入るためにともし火は持っていた。しかし,そのうち,5人は予備の油を用意していなかったというのです。花婿の到着,つまり,神の国の到来はいつ来るかわかりません。この譬え話ではそれは夜中にやってきました。10人のおとめは眠っていましたが,皆起きました。そしてともし火の準備をしました。ところが,夜中の分までの油を用意していなかった愚かな5人のおとめのともし火は消えそうでした。油を持っていた賢い5人のおとめに「油を分けて下さい」と頼んだのですが,帰ってきた返事は「分けてあげるほどはない。自分の分を買ってきなさい」というなんともつれないもの。そして,油を持っていた方の賢いおとめたちは花婿と一緒になり,つまり,神の国へと入って行きました。油を切らした愚かな5人のおとめたちは,婚宴の席,すなわち,神の国へと入れなかったというのです。
さて,このたとえ話でイエスは私たちに何を教えているのでしょう。
「賢い5人のおとめは,他の5人に油ぐらい分けてあげても良いのに」と思ってしまいがちです。しかし,イエスが「賢い」といっている5人おとめが分けてあげなかったのですから,その油は,何かかけがえのないものを表しているのでしょう。私の所属教会の神父様は,「油やともし火は人に気軽にあげられるものではない,人の人生や命のようなものです」と仰っていました。つまり,イエスは他人のものを借りて神の国に入ることを認めていないのですね。たとえ,どんなものでも良いから,自前で用意しなさいと教えています。終末に自前で用意できるものといえば何でしょう。多分,自分の生き方・人生そのもの。イエスはそれをいつでも差し出せるように目を覚ましていなさいと教えているのではないでしょうか。
もっとも,おとめたちもそうしたように夜は眠っていても良いのですね。時が来て,目覚めたときに,賢い5人のおとめたちがパーっと,ともし火を明るくしたように,私たちもサっと自分自身が差し出せれば。
自分の人生を他人に代わってもらうことも,他人の人生を自分が生きることもできません。これは残酷な事実ですが,受け容れられれば使命感になり,生き甲斐が持てます。
太宰治はこのことを「恍惚と不安」と言ったような気がします。
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コメント
ちょっと難しぃ感じだけどおもしろかったょこれからも,毎日頑張ってねまた時々見に行くねん
投稿: 悠 | 2005年11月 6日 (日) 20時21分
悠ちゃんへ
コメントありがとう。あんまりがんばるのは苦手だけれど,ときどき見て下さい。
投稿: ct(MAGIS管理者) | 2005年11月 6日 (日) 21時02分
おとめのたとえ話は、今日のミサの福音朗読でしたね。とても、いろいろなことをお勉強なさっておられるのですね。
投稿: さやけかり・・・♪ | 2005年11月 6日 (日) 23時34分
はじめておじゃましました。とても勉強になります。いまもこうして「つながっている」ことを実感します。
投稿: luke8488 | 2005年11月10日 (木) 08時18分
Luke8488様
コメントありがとうございます。
コメント中に
>いまもこうして「つながっている」ことを実感します。
とありますが,どこかでお会いしましたか?
いずれにしてもこれからもよろしくお願いします。
投稿: ct(管理者) | 2005年11月10日 (木) 21時21分
書き方がわかりづらくてごめんなさい。
言いたかったのは「信ずるもの」としての「出会い」や「つながり」を表現したかったのです。
また、おじゃまします。
投稿: luke8488 | 2005年11月11日 (金) 07時55分
あっ,そういう意味だったのですか。
感が悪い私です。
ごめんなさい。
投稿: ct(管理者) | 2005年11月13日 (日) 13時48分