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2005年12月30日 (金)

「お前は私だ」

051230 愛するとは,なま易しいことではない。

しかし,哲学者の今道友信さんは,著書『愛について』(講談社 1972)の冒頭で,「愛は原体験である」と述べている。原体験とは,すべての人が体験しなければならない(また,しているはずの)体験を指す。

現代の神秘家といわれるモーリス・ズンデル神父は,著書『沈黙を聴く』(女子パウロ会 1992)の中(追加記載:『沈黙を聴く』はズンデルの著書ではなく,ズンデルが残した手記などを,福岡カルメル会が編訳したものでした。30日午後3時45分追加)で,

「愛するとは,他者となること」

と言い切っている。

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2005年12月29日 (木)

カトリック学校4<教会から派遣された学校>

カトリック学校のことを書き始めて4日目。あと2~3回は書きたいのだが,このブログを読んで下さっている人たちは,カトリックには興味はあるが,カトリック学校に格別興味があるわけではない方々の方が多いように思えるので,ひとまず,今日がまとめである。昨日までと同様,かつての勤務校の研究紀要に書いたものから引用する。

<教会から派遣された学校>

カトリック学校は教会から派遣された学校である。教会には使命がある。したがって,カトリック学校はその使命に参加しなければ,社会的評価の高い学校であっても,カトリック学校としての存在意義はない。教会の使命は,すべての人に救いの福音―――イエス・キリストのメッセージを伝え,キリストに生きる新しい人を作り出し,社会を刷新していくことにある。だが,カトリック学校の使命はこれと同じではない。なぜなら,カトリック学校は,教会そのものではなく,また,公の教育機関であるからである。しかし,カトリック学校の使命は,教会の使命と無関係でもない。創立者は教会の使命の中で学校を創立した。

カトリック学校の使命とは何か。

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2005年12月28日 (水)

カトリック学校3<日本のカトリック学校の充実を求めて>

カトリック学校についての第3回目の今日は,いよいよ日本のカトリック学校について。一昨日・昨日に引き続き,かつての勤務校の研究紀要に執筆した拙論から引用する。

<日本―――『カトリック学校の充実を求めて』>

 「カトリック学校は日本社会に福音の光を伝えるためのもっとも重要な場の一つです」と,1987年に開催された福音宣教推進全国会議(8)は表明した。しかし,それは当時のカトリック学校の現状を言い表すものではなかったことは,この会議が同時に「カトリック学校教育の現状と課題を再検討する」ことを提案し,直後に司教総会はこの提案に応えていく方針を決定したことを見てもわかる(9)。そして,中央協議会の学校教育委員会というところが中心になって,再検討の作業が開始され,1990年には,『カトリック学校の充実を求めて』というまとめが,カトリック中央協議会学校教育委員会から出された。この冊子は,非常に多くの日本のカトリック学校現場で読まれ,研修会のテキストとしても用いられており,1996年までに6刷(約6000部)を重ねた。ただし,一部のカトリック学校現場では,その存在すら知られておらず,残念であると同時に,そのこと自体,カトリック学校の抱える問題の一つに数えられよう。

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2005年12月27日 (火)

and every eye shall see him

ここのところ,本職のカトリック学校関連の記事の連続なので,ちょっと気分を変えて,一つ,オススメのアニメを。音も出ますので,PCのボリュームに気をつけて下さい。
ラファエラ姉さん様の『霊妙なる器』から辿って見つけたページです。僕はとにかく映像と音楽がジーンと来ました。
英語は得意ではないのでよくわかりませんが,プロテスタント関連の一ページのようです。

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カトリック学校2<カトリック教育聖省>

カトリック学校についての第2回目。昨日は,「カトリック系学校の固有の使命は,学校内に自由と愛の福音的精神に満たされた学校共同体のふんい気をつくること,青少年が自分の人格を発展させると同時に,洗礼によって新しい被造物となった青少年は新しい被造物として成長するように助けること,また生徒が世界,生活,人間について徐々に習得する知識が信仰に照らされるように,人類の全文化を究極的に救いの知らせに秩序づけることである。こうしてカトリック系の学校は,進歩する時代の状況に対して開放的態度をとりながら,地上の社会の福祉を効果的に促進させるよう生徒を教育し,かれらが神の国の拡張のために奉仕するよう準備させる。それは,生徒が模範的および使徒的生活の実践により,人間社会にとって,いわば救いのパン種となるためである。したがって,カトリック系の学校は,神の民の使命を果たすうえに大いに貢献し,教会と人間社会相互間の利益のため両者の対話に役立つことができ,そのために現代の状況のもとでもきわめて重大な義務を有している。」という,第2バチカン公会議中で宣言されたカトリック学校の使命と義務を紹介した。

今日はこれを受けて,日本でいう文部科学省にあたるローマのカトリック教育聖省の動きを紹介したい。昨日に引き続き,かつての勤務校の研究紀要に執筆した拙論から引用する。

<カトリック教育聖省>

ローマのカトリック教育聖省は1977年3月に『カトリック学校』を,1982年10月に『学校に働く使徒の使命』を発布した。前者はカトリック学校のあり方に関する要請であり,後者はカトリック学校に関わる教職員,設置者,地域の教会,修道会,親にあてての教書である。これらもまた,先の『キリスト教的教育に関する宣言』と同様に生徒・教職の大部分が信者ではない日本のカトリック学校には必ずしも合わない部分が多々あるという発布当時からの指摘(4)を知った上でも,発布から20年経った今日なお日本のカトリック学校に貴重なメッセージを送っている。

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2005年12月26日 (月)

カトリック学校1<第2バチカン公会議>

私のアイデンティティ。
それは家族の一員であることである。妻の夫であり,三人の子どもの父親であること。
もう一つ,社会的なアイデンティティ。それは『カトリック学校教師』である。

1986年の大学卒業以来,途中2回学校を変わったが,一貫してカトリック学校の教壇に立ち続けている。尤も途中1年間は非常勤講師であったため,同時にプロテスタントのキリスト教主義学校や無宗教の学校の教壇にも立った。

さて,カトリック学校とは何か?

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2005年12月25日 (日)

主の御降誕おめでとうございます

051225_2 深夜の1時半に帰宅しました。僕の所属教会では,24日夜7時半からと25日午前0時からミサが行われました。午前0時のミサは,まさにクリスマスミサにふさわしい時間帯のミサです。イエス様は暗い真夜中にお生まれになったからです。僕はそのミサに与ったので,たった今帰宅したわけです。

昨日から今日にかけて嬉しいことがたくさんありました。最も嬉しかったことは,久しぶりに家族全員でミサに与り,御聖体のうちに一致できたことです。

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2005年12月23日 (金)

聖園招待

051223 昨日のブログにも書いたが,今日は「聖園子どもの家」の子どもたちを勤務校に招いた。これは毎年,この時期に行われる行事で,「聖園招待」と呼ばれている。「聖園子どもの家」には,普段は月に1回,10名前後の有志で遊びに行ったり,週に1回学習ボランティアとして数人の生徒と教員が訪問したりしているが,今月は年に1回,逆に本校に招待するのだ。今回は幼稚園から中学生くらいの子ども約50名がやってきた。マイクロバスで2度に分けて来たのだが,まず,次のような光景に感動した。

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2005年12月22日 (木)

100万人のキャンドルナイト

051222 勤務校は昨日(21日)が2学期終業式でした。したがって今日から冬休みです。しかし,明日(23日)「子どもの家」の子どもたちを学園に招きクリスマス会を行います。この行事への生徒の参加は任意ですが,明日は中1~高2の合計73名の生徒がボランティアとして参加してくれます。また,大勢の保護者の方もお手伝いして下さいます。朝9時頃から始まって午後3時半に終了予定です。午前中はフリータイムで,体育館,グラウンドなど校内のどこでも遊べます。マジック同好会の生徒が手品をやっている部屋などもあります。お昼ご飯は,本校のお母様方が準備して下さっています。200名分くらい用意するのですから,本当に大変です。材料等もご家庭からの寄附で募りました。午後は小講堂にて,ブラスバンド部の演奏,お母様方のハンドベル演奏,隣のカトリック女子校(ブログ『Good News Collection』の先生の勤務校)の生徒さんの出し物,「子どもの家」の子どもたちの出し物,子どもたちへのプレゼントなどが行われます。

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2005年12月21日 (水)

羊飼いと博士

051221_2 所属教会のプレゼピオです。おとめマリア,ヨゼフ,そして羊飼いと博士が,飼い葉桶で眠るイエス様を囲んでいます。

この世に遣わされた神のもとに最初にやってきたのが,夜通し仕事に携わっていた素朴な羊飼いたちと,彼等とはまったく階層の違った博士たちだったことは,イエスがこの世にもたらされた意味を象徴しています。

キリスト教の本質は,弱者救済。しかも,その教えは本当の意味で知的なものでることが,イエスの誕生時に示されました。

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2005年12月20日 (火)

生きるために生きること

17日のブログ中のファーブルについての間違えた記述について,調べたり直したりしていっため,昨日(19日)はブログをアップできなかったが,一昨日のブログの最後は「釜ケ崎の話は,今度また書きます。」とくくったので,今日はそれについて。

今年の一月に,生徒を引率して,大阪・釜ケ崎に行ってきた。以下は,その直後に,勤務校の『学園通信』用に書いた文章に加筆・訂正したものです。

JR新今宮駅で電車を降り,釜ヶ崎に近い出口に向かう階段を下りながら,「あれ,においがしない」と昨年も釜ヶ崎を訪れた同僚が呟いた。
釜ヶ崎に行った9人の生徒と4人の教員の中で,私が最も釜ヶ崎のことを知らない。生徒のうち2人は昨年も釜ヶ崎ボランティア活動に参加しているし,他の生徒も倫理の授業で最近の釜ヶ崎のことは学んでいる。また,私以外の教員はみな倫理科である。私は数学科。

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2005年12月18日 (日)

マリアの受諾

051218 今日はカトリック教会では,『待降節第四主日』。第四アドヴェントの始まりの日。教会にも4本目のローソクに火が灯っていました。我が家でも今日から4本目のローソクに火を灯します。

今日のミサの第一朗読は『サムエル記』7章1節~5節,8節途中~12節。14節の一部。16節が読まれました。「聖書と典礼」(写真)による要旨は「ダビデの王国は,ダビデの行く手にとこしえに続く」というもの。

第二朗読は『使徒パウロのローマの教会への手紙』16章25節~27節。全文は,

神は,わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって,あなたがたを強めることがおできになります。この福音は,世々にわたって隠されていた,秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて,永遠の神の命令のままに,預言者たちの書き物を通して,信仰による従順に導くため,すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に,イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように,アーメン。

ここで,「秘められた計画」とは,神がキリスト・イエスをこの世に遣わすことを通して,全人類に救いをもたらしたというご計画です。

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2005年12月17日 (土)

ザビエル,ファーブル,イグナチオ(訂正版)

051217 大寒波がやってきているそう。雪が降っていないのは,列島の太平洋側だけなのではないかと思います。雪の多い地方の皆さんは,さぞかし雪下ろし等大変でしょう。どうぞお気をつけて作業をなさって下さい。写真は,今朝,勤務校から見えた富士山です。麓の方まで雪化粧していました。今朝はくっきりと見えるというほどではなかったのですが,クリックしてみて下さい。少し大きな写真が表示されます。

さて,話は変わりますが,

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2005年12月16日 (金)

犬になった人の譬え話

昨日のブログでリバス神父の話を書きました。「マリアは悔しかった」という印象的なクリスマス・メッセージと共に,もう一つ紹介したかったのが,師の著書『ミサ 神の愛の確認』(新世社 1996年)に収められている次の譬え話です。

昔々とてもやさしいおじいちゃんがいました。三十歳ぐらいの自分の子供と一緒に非常に幸せに住んでいました。そのおじいちゃんには特技がありました。それは犬を作るという技術でした。とてもやさしい方で,犬を一匹一匹心を込めて作っていました。自分の幸せを犬たちとも分かち合いたいと思って造ったのです。いつのまにか自分の家は,大きい犬や小さい犬でいっぱいになりました。その子供と相談した結果,犬たちを近くの野原に出して,餌をいっぱい与えて,大さい犬も小さい犬も皆自由に,伸び伸びと育って幸せに過ごすように求めて,それを犬たち自身に任せました。
数日後気になっていたので子供と一緒に犬を見に行きました。近づくにつれて,犬たちの吠え声や鳴き声が聞こえてきました。足を早め,そこに見た有様は非常に苦しいものでした。犬たちは皆争って,噛みつき合い,殺し合っていました。
非常に心を痛めたお父さんと子供は,どういうふうに犬たちを救うことができるかということについて話し合いました。一匹一匹を別の木に縛りつけたらどうかなどと考えていましたが,殺し合っている犬たちの中に入るだけでも危険ですし,また,不自由になった犬たちも幸せにならないでしょう,と。
考えているうちに三十歳の子供の顔が輝きました。「お父さん,僕が犬になります。犬になって彼らを救います」。父親は「犬になったら殺されるに決まっているし,強い犬でなく,弱くて惨めなものにならないと苦しんでいる犬たちは信じてくれないし,お前の言葉を聞きもしないだろう」と。それに対して子供は言いました。「私はこの犬たちに,御父に愛されていることを知らせたい。そして愛し合って生きるように教えたいのです。おっしゃる通り聞きもしないで私をも殺してしまうでしょう。弱くて,皆に捨てられるような惨めな犬になるから死ぬ覚悟でいます。しかし何匹かの犬たちが御父の愛を信じて,その教えを受け入れて全世界の犬たちに教えてくれるでしょう。そしてやがては全世界の犬たちが愛し合って生きれる社会に変えてくれるでしょう」

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2005年12月15日 (木)

「マリアは悔しかった」

イエズス会士のイシドロ・リバス神父をご存じの方は多いだろう。リバス神父は1954年に来日し,東大生が多く住んでいた駒場のザビエル寮舎監,上智大学での宗教学の講義,聖イグナチオ教会での司牧,マリッジ・エンカウンターやCLC等分かち合いグループの指導,そして,黙想会や霊操の指導などで日本全国を飛び歩き,昨年,病気治療に専念するため祖国スペインに帰国した。その間,『日本の大学生』(読売新聞社),『日本人とのおつきあい』(コルベ出版 1976年),『二人の自分』(女子パウロ会 1983年),『孤独を生きぬく』(講談社 1985年),『傷ついた家庭こそ神の愛のなかに』(新世社 1993年),『ミサ 神の愛の確認』(新世社 1996年),『祈りを深めるために』シリーズ(新世社 2001年~)とたくさんの著書も残した。

私はリバス神父と大学時代に出会った。一般教養科目で彼が担当していた『日本人の宗教心』という授業を取ったのがきっかけだった。この科目を履修した理由はいたって大学生らしい理由。「楽勝コース」(=あまり努力せずAの評価がもらえる)という噂だったからである。実際には,私は楽勝コースの御利益に与らず,けっこう真面目に授業に取り組んだ。授業でもモーツァルトの音楽などを聞きながら黙想するのだから,興味がない学生にはけっして楽勝コースではなかった筈だ。実際,履修はしたが修得はできなかった学生もかなりいた。途中で授業に出てこなくなるのだ。1982年のことである。

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2005年12月14日 (水)

昔は禁書だった!?遠藤周作

主の道に通ずる入り口はたくさんある。

一昨日のブログ,私はこう最後に書いた。
仕事柄(カトリック学校教師),私の周囲にはキリスト教信者が多い。仕事外でもやはり信者の知り合いが多い。もちろん自分の属するカトリックが圧倒的に多いが,プロテスタント諸派の教会に所属している友人・知り合いも何人かいて,聖公会の知り合いも少しいる。

今は私はイエズス会の学校に勤務しているが,新卒で最初に勤務した学校が「アトンメントのフランシスコ会」という修道会が設立母体となっている学校だった。アトンメント会はもともと教会一致(at-one-ment)を目指し聖公会の中に生まれた修道会だったが,本来の一致を目指すために設立約20年後に修道会ごとカトリックに改宗した非常にめずらしい修道会だ。1909年のことだが,ローマ・カトリック教会の歴史上初の出来事だったと言われている。(藤原當悟監修『再一致の預言者』オリエンス宗教研究所 1991年)

また,カトリックの大学に通っていたが,ゼミ(理系です)の指導教授はプロテスタントの牧師さんだった。

私が比較的エキュメニカルなものの考え方をしてしまうのも,このような環境で生きてきたせいもあるかもしれない。

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2005年12月13日 (火)

アサーション・トレーニング

先日,保護者面談中で,あるお母様にアサーション・トレーニングについてお話しさせていただいた。そのお母様はお子さんのコミュニケーション能力を養いたいと仰られたからだ。

以前,「セルフエスティーム&ストレスマネジメントスキル」(11月25日)の項でライフスキルとして,第一に必要なのが,自尊感情,自己肯定感(=セルフエスティーム)であると書いた。その上に,人間関係を損なうことなく上手に自分の考えを伝えたり,聴いたりする技能・能力(=コミュニケーションスキル) が形成されると書いたが,実はこの二つのスキルは表裏一体をなしている。セルフエスティームの豊かな人は他人と上手にコミュニケーションを持てるが,セルフエスティームが乏しいと他人ともなかなかうまくやっていけず,孤立しがちになる。

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2005年12月12日 (月)

先取りして感謝!

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
  
(『テサロニケ一』5章6節~18節途中)

パウロがこういうように,いつも喜び,祈り,感謝できるのは,神のご計画への全幅の信頼を寄せることによってのみ可能であり,それはまた恵みによって実現するのだと,昨日書いた。

では,実際には,生きづらい中にあって,どのように喜び,祈り,感謝すれば良いのか。

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2005年12月11日 (日)

051211 カトリック教会は『待降節第3主日』。降誕祭を間近にした『喜びの主日』とも呼ばれている。聖書朗読も,第一が『イザヤの預言』61章1節~2節前半と10節~11節。「聖書と典礼」(写真)によれば,主旨は,「わたしは主によって喜び楽しむ」とある。私には,1節中の

打ち砕かれた心を包み
捕らわれた人には自由を

が心に響いた。歴史上では「バビロンから解放され,帰国した民に向かって預言したもの」(「第3イザヤ」と呼ばれる。「聖書と典礼」より)」であるが,「打ち砕かれた心」,「捕らわれた人」はいつの世にもあり,いつも癒しや解放を待っている。今日もそうした人々が教会にはたくさん集まっていた。いつもは8時のミサに与る私だが,ここのところ,やや体調が悪く,今日は10時半のミサに与った。少し早めに着いたので,10時開店の近くの書店に立ち寄ったのだが,途中,日本基督教団の教会から礼拝の開始を知らせる鐘の音が響いた。急ぎ足で礼拝堂に駆け込む教会員の方々。考えてみれば,僕の所属教会から半径数百メートル以内には,いくつもの教会がある。カトリック,プロテスタントの諸会派,聖公会。冬の寒い曇り空の中,たくさんの「打ち砕かれた心」が主を待ちわびて教会に集まってくる。私もその一人だ。

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2005年12月 3日 (土)

フランシスコ・ザビエルとヤジロウ

僕が最初にザビエルの名前を知ったのは,多分,中2の頃だったと思う。日本に初めてキリスト教を伝えた人物として,イエズス会(教科書には括弧書きで『耶蘇会』とも書いてあったことを今でもハッキリ覚えている)という名前と一緒に知った。

昨日,中2の三女に,「フランシスコ・ザビエルって知っているか?」と聞いたら,「うん。最初に日本にキリスト教を伝えた人でしょ」と答えられた。幼児洗礼を授けたものの,この半年以上教会に行っていない子どもたちであるが,まあ,知っていて,感心した。その会話の続きは,「明日(12月3日,つまり今日のこと)は,そのザビエルが亡くなった日で,記念日なんだよ・・・」というものでした。

ザビエルが日本に上陸したのは1549年8月15日です。この日は,カトリック教会では「聖母被昇天の祝日」であり,また,ザビエルが所属していたイエズス会が設立されてちょうど15年という節目の日でもありました。

実はザビエルはその後の約2年間しか日本に滞在していません。1551年11月15日,中国伝道のために,日本をあとにしました。しかし,その間,山口では5ヶ月間で500人の信者を得るという奇跡的な救いを人々にもたらします。

中国に向けて旅立ったザビエルでしたが,1552年12月3日。中国上陸を目前にして,広東近くの上川島(サンチョアン)という小さな島で病死します。46歳でした。

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2005年12月 2日 (金)

弱さこそ神からの賜物

今日は,弱い人間,あるいは,人間の弱さについて。

主は,「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから,キリストの力がわたしの内に宿るように,むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ,侮辱,窮乏,迫害,そして行き詰まりの状態にあっても,キリストのために満足しています。なぜなら,わたしは弱いときにこそ強いからです。 (コリントの信徒への手紙二 12.9~10)

一般に,社会では「弱さ」はマイナスに評価されることが圧倒的に多いです。僕も失敗してしまった日などは,自分の欠点,弱さばかり気になり,自己嫌悪に陥ります。失敗は成功のもと(でも,成功も失敗のもとだよ)なのでよく反省し次はと奮起することもあります。しかし,なかなか立ち上がれないときには,上の聖書の箇所を思い出して,神様からのプレゼントを受け取ることにしています。聖書ではむしろ,人間の弱さに光を見出し,上の箇所では,「弱さを誇りましょう」とまでいっています。

聖書はすべての人類の救いのために書かれたものです。けっして強い人間だけを対象に書かれたものではありません。それよりも寧ろ人間は弱く,失敗する存在であるという前提で書かれていると思われます。

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2005年12月 1日 (木)

心のいと深きところに平和

いつもこのブログにコメントを寄せて下さるmaria michaelaさんが,「主の平和」は「いい響きです」とご自分のブログに書いていらっしゃいます。 そちらの方に投稿したコメントと重複する内容ですが,「主の平和」。ホントにいい響きだと私も思います。

ところで,「主の平和」ってどんな平和なのでしょうか。
単に,「戦争・略奪・残虐行為などの非人道的な出来事がない」というイメージではないと思われます。
もちろん,これらも大切な平和であることは言うまでもありません。
しかし,それらは,人間の手によって行われていることですから,人間の手によって解決されるべき問題です。
よって,これらが解決して訪れるのは「人間の平和」でしょう。人間は愚かで有限ですから,この平和が長続きしないことは歴史が語っています。人類の歴史は,争いと奪い合いの歴史ですから。

ところが,「主の平和」は違います。主は天のいと高きところにおられる永遠の方です。
したがって,「主の平和」は,天のいと高きところの平和,終わることのない平和なのです。
「天のいと高きところ」。そこは,いつもミサで唱える栄光の場所。

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