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2005年12月11日 (日)

051211 カトリック教会は『待降節第3主日』。降誕祭を間近にした『喜びの主日』とも呼ばれている。聖書朗読も,第一が『イザヤの預言』61章1節~2節前半と10節~11節。「聖書と典礼」(写真)によれば,主旨は,「わたしは主によって喜び楽しむ」とある。私には,1節中の

打ち砕かれた心を包み
捕らわれた人には自由を

が心に響いた。歴史上では「バビロンから解放され,帰国した民に向かって預言したもの」(「第3イザヤ」と呼ばれる。「聖書と典礼」より)」であるが,「打ち砕かれた心」,「捕らわれた人」はいつの世にもあり,いつも癒しや解放を待っている。今日もそうした人々が教会にはたくさん集まっていた。いつもは8時のミサに与る私だが,ここのところ,やや体調が悪く,今日は10時半のミサに与った。少し早めに着いたので,10時開店の近くの書店に立ち寄ったのだが,途中,日本基督教団の教会から礼拝の開始を知らせる鐘の音が響いた。急ぎ足で礼拝堂に駆け込む教会員の方々。考えてみれば,僕の所属教会から半径数百メートル以内には,いくつもの教会がある。カトリック,プロテスタントの諸会派,聖公会。冬の寒い曇り空の中,たくさんの「打ち砕かれた心」が主を待ちわびて教会に集まってくる。私もその一人だ。

第二朗読は『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙』一の5章16節~24節。「聖書と典礼」にる主旨は「主の来られるとき,あなたがたの霊も魂も体も守られますように」だが,私はこの箇所を読むとき,

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。

   (16節~18節途中)

に,(どういったらいいのか)少し戸惑う。

生きていると,いろんなことがあるわけで,いつも喜んでばかりはいられない。怒りのあまり祈れないときもある。感謝できないめに遭うこともしばしば。でも,パウロはそんなことは百も承知で上のように言い切っているのだと解している。パウロのこの3つの「~なさい」はクリスチャンに突きつけた覚悟のようなものだ。

自分にとって嬉しいことを喜ぶのは当たり前。平安なときに祈れるのも当たり前。望ましいことに感謝できるのも当たり前。しかし,しかし,パウロはそういった限定を外して命令した。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。 私はこれは非常に厳しい要求だと思う。これができる人は,自分を超えた方の思いを信じている人だけ。「わたしは,あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている,と主は言われる。それは平和の計画であって,災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(『エレミヤ書』29章11節)という神のご計画を全面的に信頼しなければ実行できない。しかし,パウロは,

これこそ,キリスト・イエスにおいて,神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して,良いものを大事にしなさい。(18節途中~22節)

と勧告する。聖霊を意味する”霊”と預言を信じ,「良いものを大事にしなさい」といっている。それで,「良いもの」とは何か?「 あなたは存在するものすべてを愛し,お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら,造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し,あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ,すべてはあなたのもの,あなたはすべてをいとおしまれる。」(『知恵の書』11章24節~26節)とある。だから私たちもすべてをいとおしみ,いつも喜び,祈り,感謝しなければならない。しなければならないとなると苦しいが,実は,いつも喜び,祈り,感謝できることは恵みによってのみ可能である。そのためには,祈りが必要である。「祈る恵みに与るためには祈りが必要」。論理的にはループ構造になっているこのテーゼは信仰上は矛盾しない。「神様,私に祈れる心を下さい」と私はしょっちゅう祈っている。どれほど自分が祈れないかを知れば,どうしてもこう祈ってしまう。

もう一つ,私がよくする祈りは,「主よ,私をあなたと一致させて下さい」だ。体調が悪い中ミサに与ったが,御聖体をいただけて,やはりミサに与れて良かったと思う。

福音朗読は,『ヨハネによる福音』1章6節~8節と19節~28節。全文は,

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため,また,すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく,光について証しをするために来た。
さて,ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが,祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして,「あなたは,どなたですか」と質問させたとき,彼は公言して隠さず,「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた,「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると,ヨハネは,「違う」と言った。更に,「あなたは,あの預言者なのですか」と尋ねると,「そうではない」と答えた。そこで,彼らは言った。「それではいったい,だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは,預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて,「あなたはメシアでも,エリヤでも,またあの預言者でもないのに,なぜ,洗礼を授けるのですか」と言うと,ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが,あなたがたの中には,あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で,わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは,ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側,ベタニアでの出来事であった。

雨宮慧著『小石のひびき』(女子パウロ会 1999年)では,ヨハネ福音書に描かれているこの洗礼者ヨハネは「最初のキリスト者」と言えるほど「キリストに接近して」いると解説している。ヨハネはイエス・キリストを「あかす」「声」だという。

私も「声」を出したいが,あまりにも小さいのは,ひいている風邪のせいではなさそうである。

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