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2005年12月14日 (水)

昔は禁書だった!?遠藤周作

主の道に通ずる入り口はたくさんある。

一昨日のブログ,私はこう最後に書いた。
仕事柄(カトリック学校教師),私の周囲にはキリスト教信者が多い。仕事外でもやはり信者の知り合いが多い。もちろん自分の属するカトリックが圧倒的に多いが,プロテスタント諸派の教会に所属している友人・知り合いも何人かいて,聖公会の知り合いも少しいる。

今は私はイエズス会の学校に勤務しているが,新卒で最初に勤務した学校が「アトンメントのフランシスコ会」という修道会が設立母体となっている学校だった。アトンメント会はもともと教会一致(at-one-ment)を目指し聖公会の中に生まれた修道会だったが,本来の一致を目指すために設立約20年後に修道会ごとカトリックに改宗した非常にめずらしい修道会だ。1909年のことだが,ローマ・カトリック教会の歴史上初の出来事だったと言われている。(藤原當悟監修『再一致の預言者』オリエンス宗教研究所 1991年)

また,カトリックの大学に通っていたが,ゼミ(理系です)の指導教授はプロテスタントの牧師さんだった。

私が比較的エキュメニカルなものの考え方をしてしまうのも,このような環境で生きてきたせいもあるかもしれない。

さて,心のさかばでは,よく遠藤周作の話題が出るが,遠藤周作の作品を読んだことが入口になって,あるいは,遠藤作品に後押しされて,信仰の道に入った人は,相当数いるのではないだろうかと思う。さきほどキリスト教信者の知り合いが多いと書いたが,特にカトリック信者の中に,遠藤の『沈黙』,『イエスの生涯』,『キリストの誕生』等の小説群,あるいは『私のイエス』,『私にとって神とは』のいわゆる小説家によるキリスト教解説書を洗礼前に読み,影響を受けた人は多い。この夏に5人のカトリック信者で長崎を巡ったのだが,うち4人が遠藤をよく読んでいた。そして,残りの一人は,夏以降,遠藤作品を立て続けに読み,やはりハマっている。

精神医学者の村松常雄氏(1900~1981)は,著書『不安と祈りの心理』(講談社新書579番 昭和55年)中,最終節『結局イェスの「絶対愛」の教えに「存在の不安」からの救いを求める決心をしたいきさつ』において,次のように書いている。051214 遠藤周作経由で主の道に入った者の心理がよく語られていると思う。

 同氏[遠藤周作]はこの著書の中では,様々な奇跡にはまったく触れておらず,イェスをただ「愛」を説き続け,ユダヤ教信者から迫害され,死刑にもまったく無抵抗で,その弟子たちからも裏切られ,当時のローマ帝国の支配からの民族解放的独立の救世主と考えられた期待に反したことで,「無力な人」と見られた「人」であったと描写しておられた。しかしその裏切った弟子たちが,イェスの刑死した後になって,イェスの「愛」の精神に目覚めて,初めてイェスを神格化し,新訳聖書が編集され,キリスト教が設立されたという要旨であった。著者(村松)が青少年期に,到底信ずることは不可能と考えて断念せざるをえなかったキリスト教とは著しく違った解釈であり,これこそ著者が求めていた「愛」の宗教であることを発見したのであった.。
 この発見は,著者にとって大きなショックでもあった。遠藤氏は,自身敬虔なカトリック信者であり,著者が教会で洗礼を受けたときには,上記した関係もあって特にお願いして代父になっていただいたのである。同氏は『イエスの生涯』の「あとがき」の中で「この本に描かれたイエスの生涯には---多くの聖職者,神学者の不満は承知しながら(中略)小説家として(日本人につかめるイエス像)を書いたものであるから聖書におけるその使信についての神学的解釈もない。それらは本書の意図をはみ出たものであり,私の力の及ぶところではないからである。(中略)ただ日本人である私がふれたイエス像が基督教に無縁だった読者に少くとも実感をもって理解して頂けるものであったならば,この仕事は無駄ではなかったような気がする」と結んでおられる。すなわちこの著作は単なる小説の創作ではないのである。聖書に基づいて現代人にわかりやすく描いたイェスの姿と理解してもよかろう。特に著者(村松)は,青少年期には既述したように,まったくとりつき難い別の世界のように思われて,聖書を読み続けることを途中で断念してしまったので,その神話的なカーテンを大胆とさえ思える程に押し開いて下さったことになったわけである。

また,粒子の衝突実験中に放たれる光の色の美しさに神を見いだし信者となった科学者もいると聞いたことがある。

さて,私自身は,今から20年あまり前,洗礼を受ける前の大学生の時,イエズス会の神父様から『沈黙』,『イエスの生涯』,『キリストの誕生』を読むように薦められたのであるが,それより前には,『沈黙』を読むことは,カトリック教会ではタブーだったそうである。同僚の理科教員は,学生時代(もう洗礼を受けていた),見つからないようにそっと隠れて読んだそうである。

勤務校の昨年のクリスマス公演の際,講師の神父様は遠藤の『沈黙』を引用して,神について語ってくれた。

主の道に通ずる入り口はたくさんある。

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コメント

ご紹介ならびにトラックバックありがとうございます。私のような理系の人間には宗教は縁遠いものでしたが、理論的に考えるがゆえに「おごり」がありました(まだまだですが)。遠藤周作の著作(特にキリストの誕生)は、使徒の目からイエスを描くことで、神の存在の偉大さと人間のおごりを感じさせてくれますね。禁書であっても不思議ではないところもありますが、苦しみから私を救ってくれたきっかけは遠藤周作でした。良い時代に生まれたことを「神に感謝!」しています。

投稿: さかば | 2005年12月14日 (水) 01時19分

>>さかばさんへ
コメントありがとうございます。
ここのところのココログの重さとトラックバック等の反映の遅さには困っています。
しかしながら,度重なるミスで,何度も「心のさかば」に同じトラックバックを送ってしまい,
本当に申し訳ありません。
ところで,
>私のような理系の人間には・・・
と仰っていますが,私も理系です。
物理学科を出て,
今は中高一貫カトリック男子校の数学の教師をしています。
それでもって,なおかつ,
生徒対象の聖書研究会も担当しています。
さかばさんとは,遠藤贔屓,ナウエン贔屓,ネットによる証や福音宣教という点でも共通点が多く,
ブログを読んでいても共感できることが多いので,
ついついトラックバックしてしまいます。
もともとは,隣の学校に勤務している教員がやっているGood news collectionに触発されてMagisを始めました。
今後ともご贔屓に!

投稿: ct(管理者) | 2005年12月14日 (水) 10時37分

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私の場合は遠藤周作の本がきっかけでしたが、はじめの頃は教派を選ぼうとしていました [続きを読む]

受信: 2005年12月14日 (水) 23時24分

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