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2005年12月28日 (水)

カトリック学校3<日本のカトリック学校の充実を求めて>

カトリック学校についての第3回目の今日は,いよいよ日本のカトリック学校について。一昨日・昨日に引き続き,かつての勤務校の研究紀要に執筆した拙論から引用する。

<日本―――『カトリック学校の充実を求めて』>

 「カトリック学校は日本社会に福音の光を伝えるためのもっとも重要な場の一つです」と,1987年に開催された福音宣教推進全国会議(8)は表明した。しかし,それは当時のカトリック学校の現状を言い表すものではなかったことは,この会議が同時に「カトリック学校教育の現状と課題を再検討する」ことを提案し,直後に司教総会はこの提案に応えていく方針を決定したことを見てもわかる(9)。そして,中央協議会の学校教育委員会というところが中心になって,再検討の作業が開始され,1990年には,『カトリック学校の充実を求めて』というまとめが,カトリック中央協議会学校教育委員会から出された。この冊子は,非常に多くの日本のカトリック学校現場で読まれ,研修会のテキストとしても用いられており,1996年までに6刷(約6000部)を重ねた。ただし,一部のカトリック学校現場では,その存在すら知られておらず,残念であると同時に,そのこと自体,カトリック学校の抱える問題の一つに数えられよう。

さて,その『カトリック学校の充実を求めて』の巻末資料に,「カトリック学校は教会から派遣されているという事実を再確認し」という一節がある。これは,先の福音宣教推進全国会議の呼びかけを受けて1988年に東京で開催された「カトリック学校校長・理事長研修会」において,『確認』として同意されたことがらの冒頭に述べられているが,この「教会からの派遣」という事実こそがカトリック学校の出発点であり,実際,その学校の所在する教区の司教が認可することによってカトリック学校を名乗れることになる。したがって,そこで働く者には,カトリック学校としての特徴を活かしていく義務と責任が生じる(10)。そして,それは信者教職員にのみに課せられたものではない。051228

 日本では,信者のみでカトリック学校を運営していくことは不可能であるし,そうしたところで学校としての質が高まるわけではない。むしろ,7割以上を占める,カトリックの信仰を持たない人の尽力があったからこそ,カトリック学校は現在のような社会的評価を得るに至った(11)。が,カトリック学校を評価する基準は社会的評価だけではない(12)。カトリック学校の魂はキリストである(13)。したがって,福音的価値観に基づいた評価こそがカトリック学校を評価するのに値する。だから,カトリック学校に関わるすべての人には,必然的にイエス・キリストに何らかの形で触れ,学ぶことが要求される(14)。それは,要理を学んだり,信仰を持つようにするということとは,当たり前だが,全然異なる。むしろ,創立者の建学の精神を学ぶといった方が現実的である。これは,カトリック学校に限らず,私立学校に勤務する者の最低限の研修だろう。多くの場合修道者である創立者は,イエス・キリストのメッセージを伝えるために,日本でカトリック学校を建てた。だから,建学の精神を学べば,自ずとイエス・キリストに行き着く

 ところで,福音的価値は社会的評価にまさるものではあるが,それは社会的価値観と必ずしも相矛盾するものではないことも確認しておきたい。

 例えば,社会的に評価される学力の向上。神がその人に与えた賜を活かすように手助けすることは,それこそ福音的な仕事である(15)。よく,カトリック学校として,こころの教育と学力のどちらに力を入れるか,あるいは,その「2本立て」などという議論があるが,表面的であるといわざるを得ない。むしろ,それらは目的と結果であるといえよう。学力向上はカトリック学校の福音的仕事の結果である。ただし,個々の教科活動・授業にあっては,それが目的になる場面は想定される。したがって,当然だが,カトリック学校が進学校になっても,そのことで批判されることではない。先の『カトリック学校の充実を求めて』では,競争原理も否定していない(16)。だが,だからこそ大切になってくるのが,福音的価値観である。この点について,『カトリック学校の充実を求めて』は,その冊子の結び近く「進学・受験戦争の現実の中で」という小見出しの中で,「問題はその競争の背後にある人生観・価値観であります。もしそれが,ひたすら物的向上をもとめるだけのもので終わるならば,それは人間の一生は神に向かう旅であり,神の中に人生の究極の完成があるというカトリックの世界観から肯定できないことであります。また,他を顧みる余裕のないものであるならば,それは「私が愛したように互いに愛しあいなさい」というキリストのメッセージとは相いれないものであります。また競争に勝ち抜くことだけが人生の只ひとつの目標であるかのように思い,人間の評価がそれで決まると思いこんだものであるならば,それは「たとえ全世界を手に入れても魂を失うのならば,なんの益になろう」というキリストの価値観とは相反するものであります。福音に基づいた総合的な価値観・世界観を園児・児童・生徒・学生に伝えていくことは無論のこと,その親,そして社会に訴えていくことはカトリック教育に携わる者すべての大きな使命の一つだと思います」と括っている。

さて,明日は「教会から派遣された学校」ということについて掘り下げてみたい。


(8)第2バチカン公会議を受けて日本カトリック司教団が「ひらかれた教会づくり」を課題として開催を呼びかけた全国会議。通称NICE(=National Incentive Convention for Evangelization)。
(9)学校教育委員会『カトリック学校の充実を求めて』(1990 カトリック中央協議会)の「はじめに」
(10)同P.8
(11)同P.16
(12)日本の司教団は「カトリック学校としての自己点検評価基準」という文章を出している。
(13)『カトリック学校の充実を求めて』p.27。1988年カトリック学校校長・理事長研修会における『確認』の2
(14)同p.16
(15)同p.21
(16)同p.23

次回に続く

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