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2006年1月 2日 (月)

初詣

060102_2 昨日はブログに書いたようにミサに与ったが,実は10時30分のミサは普段半分ほどしか人がいなかった。理由は,私の所属教会が鶴岡八幡宮という有名な神社の近くにあるからである。鶴岡八幡宮は3が日で210万人の初詣客を予想している。実際には1日の曇天と今日の雨天で予想を下回るであろうが。それで,3が日は,市内中心部への車の乗り入れが出来ない。私の教会は八幡さまに近いお陰で,近所のコイン・パーキングには事欠かず,私もそうだが,普段はマイカーでミサに与るに来る人が割と多い。1日の場合はそれは100%不可能である。また,電車は横須賀線だが,通勤ラッシュ並みの混雑となる。そんな訳で1日のミサは普段の半分の人数で執り行われた。

普段,(私の家は「鎌倉の陸の孤島」といわれている)マイカーで教会に行く私も,元旦に教会に行くのはちょっと大変なのでやめようかとも思った。マイカーなら10分以内の距離だが,直通バスはないので,公共交通機関を使うと,バスと電車を乗り継ぎ約一時間かかってしまう。しかも,当日の横須賀線は初詣ラッシュの時間帯・・・。

しかし,市内中心部の全面通行止めの期間中は,市民に便宜をはかるため,市とバス会社の話し合いによって,普段はないバス路線が運行されるのだ。

私は鎌倉湖畔(聞こえは良いが,きれいとはいえない人工池である)に住んでいるが,普段はここからは大船行きのバスしかなく,距離的に近い北鎌倉や鎌倉へのバス路線はない。しかし,市内中心部全面通行禁止の正月3が日だけ,鎌倉湖畔と鎌倉(鶴岡)八幡宮間を直通バスが走る。これは実に便利で,これに乗れば,一本で教会近くまで行かれる。そこで初めて昨日はそのバスに乗ってみた。(江ノ電さん,普段からこの路線走らせて~)

バスは途中から満員に近い状態で走った。私は教会のミサに与ったのだが,あのバスに乗っていた人たちは,私以外,おそらく一人残らず鶴岡八幡宮に行ったものと思われる。

写真は元旦の鶴岡八幡宮の様子である。寒い曇天の午前中であるにもかかわらず境内はこの人でであった。しかし,こららの人の何割が,この神社は元々は,源頼義が由比ヶ浜に,京都の石清水八幡宮の分霊を祀ったのが始まりであることや,源氏の守護神であることを知っているのだろうか。それでも,人々は寒い中,熱心にお参りする。私はこれこそ,日本人の豊かな宗教性だと思う。よく引用されるが,西行が伊勢詣りをしたときに詠んだ(実は後世の人のものとの説が強い)とされる「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こほるる」という歌は,このような日本人独特の宗教性を表している。日本人は,インスピレーションが豊かで,そこに何が祀ってあるかはわからなくても,かたじけなさ,つまり,ありがたさと畏れ多い気持ちが混じって,涙さえ流すという。私は大学生のとき,多くの宗教学の授業で,日本人の宗教性の豊かさを講義されたが,昨年から鎌倉に住むようになり,その的確さがよりわかるようになった。

それにしても,日本人,いや,日本人のみならず,人間のこの宗教性---神を希求する心---はどこから来ているのか。鎌倉在住のカトリック作家高橋たか子さんが,「見たこともない神をなぜ人はもらいたいと思うようになるのだろう。それはすでにいくらかもらっているからなのだ。決してもらったことのないものを,もらいたいなどとは人は思わない。すでに,そうとは知らずにさえ,神の味を知っているからこそ,もっともらいたいと思う。もらえばもらうほど,ますますもらいたいと思う。」(『霊的な出発』女子パウロ会 1985)と書いていることを思い出した(21年前に読んだ本だが,まだ大切に持っている)。

昨年末のブログにも書いたが,やはり私たちは,「神」を「原体験」として知っているのではなかろうか。それはもちろん神秘的なことであると思う。

わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。
     (『エレミヤ書』1章5節前半)

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