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2006年3月11日 (土)

神さまがお怒りだ。

私の所属教会には,劇団がある。「くるま座」といって,教会のホームページには「キリスト教的精神に基づいた内外の名作を上演しています。演劇活動を通じて教会への親近感をもたせています」と紹介されている。その公演を今日は観てきた。ホフマンスタール原作『人はだれでも』という西洋の中世劇だった。「くるま座」が上演する作品は,(主宰者の意向か)日本の商業演劇が上演しないような西洋の名作である。したがって,キリスト教色の強い作品が多い。ここのところ,オーストリアの詩人・劇作家であるホフマンスタールの作品の上演が多いようだ。(ということは,想像するに,宗教色は強いものの,現代のカトリック思想とは同じではないと思われる。それをどうやって,21世紀の人に「福音宣教」していくのかを,今回は観に行った。)

会場で配られたハンドビルには,この作品について,「神さまがお怒りだ。恩知らずの人間は,すべてが神さまからの借り物であることを忘れている。そこで,神さまは忠実な死の使者を呼び出す。・・・中世劇の伝統的なストーリーが展開する」と書かれていた。

最初に登場したのは,「神さま」であったが,なんと彼が言った台詞が前述の「恩知らずの人間どもめ,私が十字架上でおまえたちの罪を贖ったことを忘れ,やれ○○(なんだか忘れた)が欲しい,○○(これも忘れた)が欲しい,やれマイ・ホームが欲しいなどと言いおって,すべてが神さまからの借り物であることを忘れている」であった。そして,「神さまの忠実な僕」とされている死の使者を呼び,ある金持ち(劇中では「人」と呼ばれていた)を死に招くという展開だった。地上で富や名声をほしいままにした「人」だったが,いざ,死ぬことがわかると,友人も恋人も離れていった。しかたなく「財産」にすがりつくが,「財産」もまた,死にゆく人の元を去り,新しい所有者を求めて去っていった。「私の所有者はこの世で次から次へと変わるものです」(正確な台詞ではないが,趣旨はこんなだった)と「財産」は語った。

さて,死にゆく彼(最後の審判に向かう「人」)が,「誰も一緒に行ってくれないのか」と叫ぶと,「私たちがいます」と登場するのが,「善行」と「美」と「知識」と「力」。この4人に導かれ,彼は主のみ前に出る準備をする。しかし,主に渡される前に,「善行」の兄弟である「信仰」に迎えられ,悔い改めを促される。すると,ここで,「善行」・「美」・「知識」・「力」の4人は「私たちの役割は終わりました」と言って,「人」から去っていく。

こんな話でした。

私の感想は,劇団員(教会員?)の方々が本当に一生懸命に演じていた(ほとんどが子ども)ので,まずはその労を労いたいです。

ただ,ストーリーは「いろいろな意味で」,なんともあと味が悪いものでした。

この話,皆さんはどう思われますか?因みに今回の公演のサブタイトルは,「子供のための西洋中世劇」というものでした。

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コメント

旧約聖書の神様のようですね。伝えようとしていることはキリスト教的なところもあると思いますが、わたしの求めている神様とはちょっと違うような気がします。遠藤周作の友人である井上洋治神父が、旧約聖書よりも福音書を重視されていたことを思い出しました。

投稿: さかば | 2006年3月11日 (土) 22時49分

>>さかばさんへ
>旧約聖書の神様のようですね。
やはりそう思われてもしかたないストーリーですね。
原作者ホフマンスタールの家系はユダヤ系ですし,
作家としてもギリシャ時代の戯曲をベースにした作品が多かった人と聞いています。
>伝えようとしていることはキリスト教的なところもあると思いますが、わたしの求めている神様とはちょっと違うような気がします。
はい。
この神は,遠藤の描くような無力で沈黙の神ではなく,力強く怒る神だと思いました。

映画『パッション』の冒頭シーン。イエスご自身が御父に祈るところから始まりますよね。
この劇の冒頭のイエスが,御父に祈る姿はとても想像できませんでした。
ただし,最後に「信仰」が悔い改めを勧めるところが,神の恵み・神の救いと読むことは可能でしょうが,「子供のため」としては難しすぎます。

投稿: ct(管理者) | 2006年3月11日 (土) 23時07分

ぼくも遠藤周作が描くイエス・キリストに惹かれます。厳しいと、ついていけない。まだまだ信仰浅き人間ですから。こんな人間だけど、必ず神様はお見捨てになさらないだろうと、勝手に思ったりして。やっぱり、インカルチュレーションについて考えさせられます。

投稿: 鵜飼清 | 2006年3月13日 (月) 14時40分

鵜飼清様
コメントありがとうございます。
>インカルチュレーションについて考えさせられます。
はい。
本文には書きませんでしたが,
聖母マリアの影も形もありませんでした。
遠藤の言う「母なるもの」は,子どもの(大人もですが)信仰を育むのには必要だと,私は考えます。

投稿: ct | 2006年3月13日 (月) 22時57分

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