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2006年3月 1日 (水)

貞潔

blog「心のさかば」で,さかばさんが,私の別サイトにある「カトリック学校の性教育」を話題にしてくれたので,今日はその話を書きます。

といっても,この話を書き始めると,また,何回ものシリーズになってしまうので,詳しくは「カトリック学校教師のページ」をみていただくことにして,やや結論めいたことと,回復教育についてだけ書いておきます。

「貞潔」という言葉はもう死語かもしれませんが,カトリック学校の性教育は貞潔教育をおいて他にはありえません。

貞潔について,『カトリック教会のカテキズム』では[2337]~[2359]で確固とした見解を示しています。これも正確には『カトリック教会のカテキズム』を読んでいただくほかないのですが,日本語版カテキズムの理解を助けるために,同書の英語版も参考にしながら,「カトリック学校の性教育」について書きます。

貞潔(Chastity)は人間として性がうまく統合されている(successful integration of sexuality within the person)ことを意味し,人間に心身の霊的な統合(the inner unity of man in his bodily and spiritual being)をもたらすものとされています。性があるということは人間が肉体的には動物社会に属している(belonging to the bodily and biological world)ことを表すものですが,人間の性は,一人の男性と一人の女性が生涯にわたって完全に互いを与え合う(the complete and lifelong mutual gift of a man and a woman)関係を築くことによって,人格を高めるもの(personal)となり,真の意味で人間らしいもの(truly human)となると教えられています。つまり,貞潔の徳(the virtue of chastity)によって人間は人格的にも完成し(the integrity of the person),全面的に捧げ合う(the integrality of the gift)存在となるのです。

貞潔な人(the chaste person)は自らに委ねられた生きる力と愛する能力(the powers of life and love placed in him)を高潔なまま持ち続けます(maintains the integrity)。人格の統一性(the unity of the person)は貞潔を守ることによって保証されます。したがって,貞潔を守ろうとする人はそれを侵すようなあらゆる行動に抵抗すると教えています。

貞潔は,いかに己を律して(self-mastery)人間的な自由を獲得するかを学ぶこと(an apprenticeship)でもあるとされています。自ら情欲を律して真の平和を得るのがよいか,情欲のままに身を任せ不幸になるのがよいかが問われています。

このように,教会は貞潔を,人格を完成させるものとしていて,自分を律し自ら獲得していくものだと教えています。そして,カテキズム[2339]では,「人間の尊厳は,人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。このような選択は人格としての内面的な動機に基づくものであって,内部からの盲目的本能や外部からの強制によるものであってはならない」(この部分の訳はサンパウロから出ている南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』による)と,『現代世界憲章』の「自由の尊さ」の項から引用しています。

そして,さらに

Self-mastery is a long and exacting work. One can never consider it acquired once and for all. It presupposes renewed effort at all stages of life. The effort required can be more intense in certain periods, such as when the personality is being formed during childhood and adolescence. [2342]

と,自分を律するという作業が,誰にとっても一生涯かかっても完全にはなし遂げられない厳しいものであるため,すべてのライフステージにおいて人は努力しなければならないことと,個が形成される過程である幼児期から青年期にかけては,貞潔を守る努力がいっそう強く求められることを教えています。

さらに,次に続く下の一節は,人間が弱い存在であるがゆえに,現実的には重大な意味をもつものとなると思います。

Chastity has laws of growth which progress through stages marked by imperfection and too often by sin. [2343]

つまり,貞潔は,だいたい不完全な段階を経て徐々に獲得されると言っているのです。特に,それは罪に汚れた(by sin)段階を経ることから始まるものだと教えています。続いてカテキズムが引用する教皇ヨハネ・パウロ2世の「人間は神の思慮深い愛のこもった計画を,責任を持って生きるように招かれており,数多くの自由な決断を通じて日々自己を築いていく歴史的な存在です。ですから人間は成長するにつれて道徳的善を知り,愛し,それを実現するのです」(『家庭-愛といのちのきずな』34)というメッセージは,聖書の「全能のゆえに,あなたはすべての人を憐れみ,回心させようとして,人々の罪を見過ごされる」(『知恵の書』11:23)という全能の神への賛歌を想起させます。神は人間への愛を忍耐によってお示しになるのです。

このように,貞潔は神への信頼と神からの信頼の徴なのです。カトリック学校が貞潔教育を放棄してしまったら,それは,神との関係を自ら断ってしまうことになります。だから,カトリック学校の性教育はアプローチの仕方はいろいろあっても,貞潔教育へと収斂してゆくものでなければなりません。

そして,カトリック教会は,貞潔は人格を完成させるものであると説いています[2338]から,貞潔教育は同時に人格教育です。つまり,貞潔教育とは,いかにして己を律し,人間としての真の自由を獲得するかを学ばせることなのです。そしてこのような自己の実現こそ人格形成と呼ばれるものです。そういった意味で貞潔教育は性教育に留まらない,カトリック学校としての根幹教育に位置するものだと思います。

ところで,もうすでに性経験をもつ者にはどう対したらよいのでしょうか。各種の調査を見るまでもなくそうした生徒が多いことは歴然とした事実なのです。このような生徒たちの存在を無視して,「貞潔」と,ただ,カトリック的なきれいな文言を並べているだけでは,ナンセンスな教育論です。それでは,彼(彼女)たちに,キリストのメッセージは何も伝わりませんし,逆に,自らを断罪し苦しみを引きずる人生を送る者を生み出してしまいます。こういった事例は多いのですが・・・。

それで,聖書がそう教えているのか考える必要が出てきます。
姦通の罪を見つかった女のことを,ただ一人,群衆の前で弁護したのはイエスです。
イエスは,娼婦も迎え入れています。
復活したキリストは,多くの罪をおかしたといわれていたマグダラのマリアの前に現れます。
そして,キリストに受け容れられた彼女たちは,新しい人になってゆきます。このような「新しい人」を育てるのがカトリック学校の使命であるはずです。また,もう一度書きますが,貞潔は罪に汚れた(by sin)段階を経ることから始まるものなのです [2343] 。

姦通の女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは,もう罪を犯してはならない」(『ヨハネによる福音書』8:11)と告げたときのイエスのまなざし。このまなざしをカトリック学校(に関わる私たち)は忘れてはなりません。このまなざしのもとにこそ,カトリック学校の貞潔教育は実のあるものとなります。温かみのあるものとなります。

貞潔とは,人間性を本来の姿に回復させることなのです。

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コメント

マンガで貞潔というと、インテリメガネの先生が鞭をもってしかっているイメージがありましたが、貞潔も神との関係の回復にあり、それはキリストのまなざしのもとで可能なのですね。逆に言うと、教える側がキリストのまなざしを感じているからこそ、きちんと指導できるのかもしれませんね。

投稿: さかば | 2006年3月 1日 (水) 01時06分

私の思う貞潔とは、

・本当に好きな人としか結ばれないこと
・そして、その人と結婚したら、他の人と結ばれたりしないこと

です。

実はそんなに難しいことではないと思っています。本当に好きなら、他に目が行かないから。

なんてね・・・。

でも、心が無いのに婚姻関係だけがあル場合、これはどうなのでしょうか。そして、心が無いけど夫婦だから結ばれてしまうのは・・・、人間って悲しいですね。

投稿: piyo | 2006年3月 3日 (金) 01時03分

>>piyoさん

>私の思う貞潔とは、
>・本当に好きな人としか結ばれないこと
>・そして、その人と結婚したら、他の人と結ばれたりしないこと
>です。

これはまったく同感です。
カトリックの教えは,(こういっちゃあ何ですが,)このことを出来ない人が多いために,ああでもないこうでもないと理論武装してはいるものの,究極的にはpiyoさんの書いておられる2点に集約されます。

さて,
>でも、心が無いのに婚姻関係だけがある場合、これはどうなのでしょうか。そして、心が無いけど夫婦だから結ばれてしまうのは・・・、人間って悲しいですね。

ねえ。本当に人間は十人十色。恋愛も結婚も十人十色。でも,結局かなしい歌ばかりが溢れています。


投稿: ct(管理者) | 2006年3月 3日 (金) 01時39分

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