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2006年5月31日 (水)

マリア様の月の終わりに

カトリック教会では毎年五月を「マリア様の月」と定めている。
現在勤務しているカトリック男子校では,これといって「マリア月」をアピールしていない。(かつては朝の祈りの集いがあったらしい。)
しかし,多くのカトリック女子校では,たとえば昼休みなどに,ロザリオの祈りを(全員ではないが)実施しているところが多い。
「マリア様,厭なことは私が」を校訓に掲げていた前任校でも,五月は,昼休みに聖堂でロザリオの祈りが毎日あり,連日,中学一年生であふれかえっていた。

カトリック学校としては大変嬉しいことなのであろう。

しかしなぜ中1の彼女たちがロザリオの祈りに集まってきたのかと考えてしまったことがあった。

受験突破という目標が大きなウェートを占めた小学校高学年を過ごしてきた彼女たちは,渇き,いってみれば何かに飢えているのではなかったのか。もちろん両親から愛されて育ってきた彼女たちであるが,何か足りないという無意識を秘めている。彼女たちは,受験突破で得たものとは異次元の安心感のようなものを求めて御聖堂に集まったのだと思う。流行の言葉でいえば,スピリッチュアルな思いにかられてということか。

そんな時代であるから,カトリック学校は問われていると思う。今こそカトリック学校は本来の存在理由を確認しなければならない。

カトリックの総本山バチカンにはカトリック教育省(日本の文部科学省にあたる。あっ,そんなものと較べたら叱られる。どっちから?)というのがある。6年前,紀元2000年を迎えるにあたり,そのカトリック教育省が発布した文書に,「カトリック学校は万人のためにあり,中でもいちばん弱い者たちに配慮する学校なのだ」と書いてある。そして,かつての物質的貧者に換わって,「人生の意味を全く持たず」「何の価値観も示されていない」「信仰の美しさについて何も知らない」(カトリック教育省『紀元二千年を迎えるカトリック学校』15)新しい種類の貧者が登場しているとして,カトリック学校はこのような若者たちに愛を吹き込むのだと説いている。バチカンから出た文書である。

女子校勤務の頃,御聖堂でロザリオを繰りながら,まだあまり意味もわからないままに,マリア様の祈りを熱心に唱え,祭壇の方に向かって深々とお辞儀をする生徒を見ていたらせつなくなった。同時に上に引用した文書の的確さは,そのときも今も切実である。

常に弱者の傍らに立ち,罪人さえも迎え入れたイエス・キリスト。そのメッセージは「あなたは大切な人である」ということ。教育や子どもが社会的に新たな状況・危機に直面している今日,カトリック学校の存在意義は大きい。カトリック学校はもっとその魂を発信すべきではないか?現代を生き抜く子どもたちが,最も求めているメッセージを,カトリック学校は持っているのだから。

あなたは大切な人です。

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コメント

5月にそういった行事があるということは、
受験という一つの大きな目標を達成した彼女たちにとって、
5月病を防ぐ役割もしているのかもしれないなと
ふと思いました。

ともすれば、燃え尽きたり、目標を見失ったり
新しい環境への適応の為にムリをしたりするかもしれない時期、
彼女たちにとって、マリア様の存在は
ある意味支えなのかもしれませんね・・・

投稿: もー | 2006年5月31日 (水) 22時08分

>>もーさんへ

コメントありがとうございます。
>5月にそういった行事があるということは、
>受験という一つの大きな目標を達成した彼女たちにとって、
>5月病を防ぐ役割もしているのかもしれないなと
>ふと思いました。
なるほど。目的は違うけれど,結果的にはそういう役割も果たしているのでしょうね。
>彼女たちにとって、マリア様の存在は
>ある意味支えなのかもしれませんね・・・
同感です。
人間には,ある種の支えが必要ですからね。

話は変わりますが,今日はばったりヒゲのオッサン(かまちゃんゴメン)に遇ったとか。
奇々遇々ですね。

投稿: ct | 2006年5月31日 (水) 22時16分

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