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2006年5月23日 (火)

心に刻まれた契約(改訂版)

昨日,「神様にできないこと」というタイトルで記事を書いたら,piyoさんとさかばさんから早速コメントをいただいた。piyoさんは,特にこれといった宗教を信者ではないとことわった上で,「神様は本当に必要なものは奪わないと思っているのです」とコメントして下さった。こんなコメントを読むと,「その通りだなあ」と思い,信仰と宗教心について改めて考える契機となった。信仰者と呼ばれている人でも宗教心がないと思われる人はいるし,逆に特に宗派に興味がなくても宗教心の豊かな人もいる。

また,さかばさんは,昨日の私の記事を読み,「全能なのにできないことがあると言うのはおかしいですよね。すると、能力が無いのではなく、その愛ゆえに「ご自分と人間の関係を断ち切ること」ができない、ということで、良いでしょうか?」とコメントして下さった。こちらの方は,おそらく,私が昨日の記事中で,唐突に「全能の神にもたった一つできないことがあることに気づく。それは神ご自身が,ご自分と人間の関係を断ち切ることだ。」と書いたための疑問なのだと思います。そこで,今日はこの点について,少し書いてみたい。

「神はご自分と人間の関係を断ち切ることはできない」と私が書いた根拠は,キリスト教という宗教が,神と人間との契約によって成立しているという点にある。この契約は旧約聖書によって預言され,イエスの十字架上の死と復活によって成就した。

見よ,わたしがイスラエルの家,ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る,と主は言われる。この契約は,かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず,彼らはこの契約を破った,と主は言われる。 しかし,来るべき日に,わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである,と主は言われる。すなわち,わたしの律法を彼らの胸の中に授け,彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる。そのとき,人々は隣人どうし,兄弟どうし,「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて,小さい者も大きい者もわたしを知るからである,と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し,再び彼らの罪に心を留めることはない。(『エレミア書』31.31~34 日本聖書協会 新共同訳)

旧約聖書のこの箇所は,いわゆる古い契約(十戒という形で示されたシナイ山での契約)と来るべき新しい契約を鮮やかに対比させている。エレミヤは,ここで,「来るべき日に」神がイスラエルと結ぶ「契約」は,人びとの「胸の中に授け」られるものであるという。「彼らの心に」「記す」のだという。そして,「わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる」。そして主は「わたしは彼らの悪を赦し,再び彼らの罪に心を留めることはない」。これがその新しい契約内容だ。契約書の刻まれた場所も旧と新で180度違う。古い契約(シナイ契約)は石の板に刻まれていたが,新しい契約は心の中に刻まれる。それは,私たちが自分をしっかりと見つめさえすれば神が見つかるようにするためだ。ここでも,知識は不要。誰でも神を見つけ出せる。契約は心に深く刻まれているのだから。 

さて,そして,一番肝腎なことはこれだ。この契約は,人間の努力によってではなく,神が一方的に押しつけてきたのだということ。契約を人の心に刻んだのは神なのだ。だから神ご自身が契約を破棄することはできない。(信仰者にとっては,「できない」とは「しないことを信じている」のと同義ということになろう)

わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる。(同33.33)

そう神は私たちの心に刻んだのだ。そして,イエス・キリストの死と復活はこの新しい契約が成就したことを意味する

神が全能だからといって,この契約を破棄するだろうか?破棄する可能性を採用する立場もある。それは一つの哲学だし,本当の意味で(キリスト教的?)無神論と呼んで良いものだろう。

ただ,私は神ご自身が,私たちの心に刻み,結んでくださった契約(これは「恵み」と言い換えてもいいと思う)を,神ご自身が白紙に戻されるとはどうしても思えない。この「恵み」が人間にはどうしても必要なものであるからだ。だから,piyoさんの昨日のコメント中の「神様は本当に必要なものは奪わないと思っている」という箇所を読んだとき,これこそ,私が言いたかったことなのだと気づかされた。

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コメント

私なりに響いたので、トラックバックさせていただきました。神への思いは同じなのですが、愛と表現してみました。

投稿: さかば | 2006年5月25日 (木) 00時43分

上のコメントを書いてから気づいたのですが、たぶん改定されたところの

>信仰者にとっては,「できない」とは
>「しないことを信じている」のと同義と
>いうことになろう

私が言いたかったことは、これです。能力がないのではなく、そんなことをする神様でないということです。
もやもやが取れて、すっきりしました!

投稿: さかば | 2006年5月25日 (木) 12時18分

>>さかばさんへ

コメントとトラックバックをありがとうございます。

>たぶん改定されたところの
>>信仰者にとっては,「できない」とは
>>「しないことを信じている」のと同義と
>>いうことになろう
>私が言いたかったことは、これです。能力がないのではなく、そんなことをする神様でないということです。

はい。重要なポイントですよね。
(改訂前からここはこうなっていたと思うのですが,
私の思い違いかもしれません)

ただ,私が今回の記事で言いたかったことは,
このことだけでなく,
引用したエレミアの預言です。
きちんと聖書を根拠にしないと,
「私の神」が「私のつくった神」にすり替わってしまいます。

>もやもやが取れて、すっきりしました!

さかばさんのもやもやが取れた理由が,
私のコメントによってではなく,
エレミア書の引用が響いたためであると良いのですが・・・。

投稿: ct | 2006年5月25日 (木) 20時15分

もちろん、エレミアの預言もビンビン響いています。契約の形が権威や威厳に基づくような形から心に刻むようになったことは、キリストのあり方を象徴していると思います。その新しい契約あり方は、愛の神の御心ゆえだと思います。
不可能だからでなく、すでに契約をしたからでもなく、御心ゆえに契約は破棄されない。そう思います。

投稿: さかば | 2006年5月25日 (木) 22時46分

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