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2006年5月20日 (土)

自我の破れ

今週の高1ゼミ『自分とつきあう』では,E.バーンの交流分析の理論に従って,構造分析をやりました。
交流分析の理論によれば,人はだれでも三つの私,すなわち,P(=Parent。親),A(=Adult。大人),C(=Child。子ども)の私を持つとされています。このPとAとCを自我状態と呼びます。簡単にいえば,その人の行動を決定する心的状態です。Pはまた,批判的な親(CP=Critical Parent)と養護的な親(NP=Nurturing Parent)の二つの面を持ち,Cも,無邪気な子ども(FC=Free Child)と順応した良い子(AC=Adapted Child)の二面を持つとされています。したがって,行動を促す心的状態(自我)は,批判的な親CP,養育的な親NP,大人A,無邪気な子どもFC,順応したよい子ACの五つの面からなるわけです。このどの面が強いかを調べる検査がエゴグラムといわれるもので,日本では杉田峰康氏の方法が有名です。

この検査をすると,五つの自我状態のバランスを知ることができます。割とハッキリと自我状態の傾向が出ます。これによって5月16日に報告したTST検査よりも,深いレベルでの自己を知ることができます。しかし,この検査もまた,TSTと同じく,結果に良い悪いはありません。「そのときの自我状態がわかるだけ」であり,また,「自我状態も変わっていく」ことを伝えました。その上で,「五つの自我のうち,あまりに高すぎるものや低すぎるものがあると,バランスが悪くて生きにくいよね」と話しました。(受講者はここで肯いていました)

ところで,今日読んでいた本の中に,自我について,面白い記述がありました。諸富祥彦著『人生に意味はあるか』(講談社新書 2005)で,著者は「人生のほんとうの意味と目的」は,「自我の破れ」によって得られると述べています。そして,それを「体験的な真理」と表しています。(227ページ)

バーンが五つに分けて規定した自我と諸富氏のいう自我がまったく同じかどうか,この本からはわかりませんが,両者とも同じフィールドの学者ですから,そう離れた概念を指してはいないでしょう。

そして,諸富氏は続けます。
「自我の破れ」に至るために必要なのは,ある種の「体験」の積み重ねと,その結果生じる自己変容を自己了解することだと述べています。さらに,

その意味では,下手に知識を重ねるよりも,あくまで自分の経験にのみ,自分自身のこころの声にのみ忠実に生きていくことが何より重要です。(228ページ)

と書いています。ここだけ取り出して読むと,自己絶対化と紙一重のようにも思えますが,ここでの「自分自身のこころの声」とは考えに考え,体験に体験を重ねた上での「こころの声」を指します。

諸富氏は宗教への帰依を勧めていません。むしろ否定的な立場を取っています。しかし諸富氏はスピリチュアルな(特にトランスパーソナル)問題に関しては,第一人者でもあります。

諸富氏のいう「自分自身のこころの声」とは,キリスト教の教える「聖霊」に近いものなのではないかと,私は考えました。この本では,これを「ひとつの同じいのちのはたらき」(207ページ)とも述べています。私はこれをキリスト教の説く「三位一体」の神の「一体」に相当するものだと捉えています。

もちろん,諸富氏の考えとキリスト教の教えがまったく同じなどとは考えていません。キリスト教の説く「三位一体」の「三位」のうち,「子(=神の子イエス)」に対応するものを諸富氏は認めていませんし,逆に,キリスト教の教えでは説明できない考えを諸富氏は「体験的な真理」へのプロセスと到達点で獲得しています。

さて,前回(5月17日)は,OBの弁護士さんが,知識よりも大切なものとして,常識を挙げられた話を書きました。今日,読んだ本では,知識よりも経験と自分自身の内なる声の大切さが書かれていました。また,知識は知恵になって初めて価値が出るとも言われます。

いずれのものも生きていかなければ身につきません。

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