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2006年6月 9日 (金)

神さまの居場所

 勤務校には「愛の運動委員会」という生徒の組織があります。いわゆる,ボランティア委員会です。たとえば,昨日と今日,ジャワ島地震緊急支援募金を校門に立って行っています。
さて,この委員会の活動の中で,中心となっているものは月に一度の児童養護施設訪問です。今週末,11日の日曜日に今月は実施されますが,4月も5月も日曜日に一回ずつ実施されました。参加者は中2から高2までで,4月は21人,5月は10人でした。4月の21人は近年では最も多い参加人数でした。今月からは中1も参加できます。その中1に対して,先日,愛の運動委員の先輩が各教室に出向き,施設訪問の説明をしてくれました。説明してくれた生徒は普段から施設訪問に参加している生徒たちです。児童養護施設(子どもの家)がどういうところか,また,何をするために自分たちが子どもの家を訪問するのかをわかりやすく説明してくれました。そして,「是非,一緒に行きましょう」と誘っていました。
 私も,しばしば施設訪問に生徒と一緒に行く教員として,翌日に施設訪問について,中1生徒たちに次のように話しました。
 

「今度行く児童養護施設にいる子どもたちは,君たちとはだいぶ違った環境で生活しています。そこには,いろいろな事情があって親と一緒に暮らせない子どもたちが住んでいます。ですから,いわゆる,一般的な形の家庭とは違った環境の中で生活しているわけです。中には親を知らない子どももいます。僕たちはそういう家におじゃまするわけです。そのときに,そこの子どもたちに何かをしてあげるという気持ちで行かなくてもいいです。ただ,遊びに行くという気持ちで参加してください。」
 このことは私の本心です。さらに,「ボランティア精神はなくてもいい」,「自分が遊びたいから行くのでいい」,「自分のために行く。それでいい」とも話しました。このことは,どんなボランティア活動にも通底することだと考えています。
 ボランティア活動が,する側と受ける側の関係のまま継続するとしたら,それは,受ける側にとっては,あまり気持ちの良いものとはなりません。「する側・受ける側」ではなくて,いつもは違う境遇にあるもの同士が,ひととき,同じ時間と空間を共有する。そのこと自体が大切なのだと思います。
 20年以上前に「人間は自分と異質なものと烈しく出会ったとき,初めて自分というものを意識する」(井上洋治著『余白の旅』日本基督教団出版局)という文章を目にしました。目から鱗でした。つまり,人間は自分と異質なものと関わったとき,相手を「他者」と認識し,同時に「自己」を発見するわけです。そして,それこそが人間としての成長を促すのだと考えています。
 そういった意味で,施設訪問は,生徒にとっても,子どもにとっても,成長の場なのです。ですから私は訪問が近づく度に生徒たちを誘います。それは,ボランティア精神を持ってほしいからではなく,彼らにとって(そして施設の子どもたちにとって),烈しく出会うよい機会だからです。人間的に成長するための大きなステップとなると思うからです。特に昨年度担当していた学年には,しつこいくらい,「行こう,行こう」と誘いました。ですが,施設訪問は日曜日に実施されるため,運動部員の場合,練習や試合と重なってしまい,参加が困難な場合が多く,昨年度の担当学年中2は参加が非常に少なく,残念な気持ちでいっぱいでした。
 しかし,4月の訪問では,中3になったその学年の生徒が10人も参加しました。それらの生徒は全員が,普段は一生懸命に運動部で活動をしている生徒たちで,大部分が初参加でした。友人に誘われたために,なんとなくしかたなしに参加したという生徒も多かったと思います。しかし,それらの生徒こそ,子どもの家では,元気よく子どもたちと遊んでいました。日頃,運動部で鍛えたからだは,子どもたちを抱いたりおんぶしたり肩車をしたりするのに,十分な筋力を備えていました。施設の子どもたちが大好きなことは,おんぶと肩車です。しかし,普段の訪問人数では,子どもたちのそうした願いに十分に応えることができませ060609_2ん。それが4月は屈強なお兄さんが大勢来てくれたのですから,子どもたちは大喜びでした。子どもの家の職員の方も,「今日はお兄さんたちがたくさん来てくれたから,子どもたちもたくさんおんぶしてもらって,本当に喜んでいます」とおっしゃっていました。また,5月も初参加の生徒が何人かいました。
 施設訪問の後,生徒には感想を書いてもらったのですが,これらを読むと,新しい出会いが間違えなく彼らを成長させていることを実感します。そして,たくさんの「ギフト」を子どもたちからもらって帰りました。
 最近,本田哲郎神父の書いた『釜ヶ崎と福音』(岩波書店2006年)という本を読みました。この本の表紙には野宿生活者が炊き出しに並んでいる列の絵が載っています。その列の中に見覚えのある姿をされた方が描かれています。イエス・キリストです。本田神父は,この本の中で,「普通ならボランティアする側,助けてあげる側,お手伝いする側に,神さまが働いておられる,とイメージしてしまう。しかし,そうではない。神さまはむしろ,手助けを必要とする人たち,弱い者と共に立っておられる」とメッセージしています。私は,子どもの家に行った生徒が感想文で,「一筋の光を見つけた」,「癒される」,「施設の子供達は助けになってくれる」,「もう一度行こうと思う」と書いているのを読み,本田神父のいわんとしていることと完全な重なりを見ました。
 これからもたくさんの生徒が子どもの家に「遊びに」行くことを願ってやみません。

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コメント

「キリストの体(コリント)」のように擁護施設の子が"目"
私が"耳"みんな神さまの業の実現のためにあるのだと
思います。生徒さんたちが楽しく過ごせたら、きっと施設の
子どもたちも楽しいに決まっていますね。

投稿: みちる | 2006年6月 9日 (金) 10時47分

>>みちるさん

またまたコメントありがとうございます。
嬉しいです!

>「キリストの体(コリント)」のように擁護施設の子が"目"
私が"耳"みんな神さまの業の実現のためにあるのだと思います。

はい。同感です。本当にそうですよね。

>生徒さんたちが楽しく過ごせたら、きっと施設の子どもたちも楽しいに決まっていますね。

そうなんですよ。
これは普段の学校の授業についても言えることだと思います。
自分が楽しくなければ,生徒も楽しいわけがないですね。

投稿: ct | 2006年6月 9日 (金) 20時49分

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児童擁護施設ではたくさんの子が暮らしている。 私の英語のサークルに小学校高学年の女の子がいる。父が誰なのか分からない、母は彼女を産むとすぐ姿をくらませた、という。生まれたばかりから乳児院に、そしてこちらの施設にきている。先天的に内臓に障害がある、こころ....... [続きを読む]

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