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2006年8月30日 (水)

宗教は宣教すべきものではない

タイトルの言葉は,本田哲郎神父著『釜ヶ崎と福音』(岩波書店 2006年)の153ページからの引用です。一文全体を抜き出すと,

「福音は告げ知らせるべきものであるけれど,宗教は宣教すべきものではないというのが,わたしが最近たどりついた結論です」

とあります。
数ヶ月前にこれを読んだとき,胸がスカッとする思いと,ここまで言っちゃって良いのという両方の思いが交錯したのを覚えています。

ところが最近,プロテスタントからカトリックに改宗されたある方が,ネット上のあるところで私に「カトリックの宣教観とプロテスタントの宣教観は大きく違うのですね。(カトリックの宣教は:マジス補)非常に受身のように感じます」と伝えてくださいました。(念のため書いておきますが,「それがいいとか悪いとか言うのではありません」とも付け加えて下さっていました。)

これを読んで,私は,なるほど~,そう見られているのか~,と思いながら,次のような主旨の私的見解をお返ししました。

カトリック教会は,第二バチカン公会議で,「社会に開かれた教会」へと大きく変身を遂げています。福音宣教という点では,ここは,ある意味でプロテスタントと大きく隔たった分岐点だと思います。
カトリック教会は,ローマを頂点に,(問題点もありますが,それはさておき)非常に大きな活動集団として動いています。ですから,もしカトリックが方針を変えて,人々にどんどん洗礼を授けて教会に招けば,一時的には教会に来る信者数はワッと増加するかもしれません。
日本にキリスト教が入って来たとき,西日本から始まったカトリック信者の急激な増加は,1日何百人という単位で広まり,あっという間に何千人,何万人,何十万人,・・・と勢いを増し,キリシタン大名なども現れ,とうとう国を脅かすものとなり,禁教令へと繋がったわけです。

しかし,カトリック教会はいまそのような道を歩んではいません。

カトリック教会の活動の中心は,小さくされた側の方に向かって行って(教会内に留まらず,自ら出て行って),その人たちの中にイエスの光を見出し,共に歩むというものとなっています。それに,もう二つ加えると,教育と祈りです。教会に呼んでイエスのみことばを解説するという方法は,(誤解があるかもしれませんが)プロテスタント教会が主としてとっている方法です。断っておきますが,これを批判しているのではありませんし,また,プロテスタント教会全体の活動をそれで括っているつもりもありません。ただ,横浜にある歴史的な二大教会の牧師さんが,揃って「プロテスタント教会は聖書の言葉を聴く教会です」と,教えて下さいました。(反対にカトリック信者の中には聖書を軽視しすぎている人がいることも事実です。)

さて,カトリック教会の福音宣教を知るには,マザー・テレサの活動を思い出すのが最もわかり易いと思います。彼女は,死にゆく人の傍で,その人の信じている宗教(たとえばヒンズー教)のお祈りを唱えたと伝えられています。そして,飢餓に苦しむアジア,アフリカの国における修道女・修道士・司祭たちの救済活動も同じです。さらには,二十歳前後から天に召されるまでの一生をトラピスト修道院での祈りに捧げるシスターもいます。聖書には「(悪霊は)祈りによらなければ決して追い出すことはできない」(マルコ9:29)と書いてあります。

私自身もカトリック学校で働いていますので,休みの日には,生徒と一緒に児童養護施設訪問をします。けれども,生徒を教会へは誘いません。(でも,来たいという生徒がときどきいるので,地元のカトリック教会の場所くらいは教えますが・・・。)

確かに御聖体はイエス様の体です。これを大切にしなければならないことは言うまでもありません。しかし,ちょっと自分の周りを見渡せば,助けを求めているイエス様は大勢いるのです。

カトリックは教会に来てもらう宗教ではなく,教会から出て行く宗教だと,カトリックの大学で教わりました。ですから,町のカトリック教会には,「教会に来て下さい」というようなビラを配るという発想はあまり起きません。配るとすれば,「○○公園で炊き出しがあるので行きましょう」という類のものです。

カトリック教会は出て行く教会です。そういう意味では,カトリックは宗教を宣教するのではなく,福音を伝えに行っている教会だと思います。

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コメント

こんばんは。コメントをつけるのは、はじめてかもしれませんね。

私の祖父は、プロテスタントの牧師でした。両親もクリスチャン。私は、讃美歌を子守歌に聴いて教会の牧師館で育ちました。

だから、カソリックの教会がどんなものか知りませんでした。ただ「規律の厳しい教会」だという先入観のみがあっただけで知ろうともしませんでした。

でも、マジスさんの今日の文を読んで、私の理想に近いのは、カソリックの方なのかな?と思いました。

私は、幼い頃から毎週教会に行きました。当たり前の週間だったのです。でも、いつからかそれが苦しくなりました。まだ、土曜日にも学校があった頃です。日曜日は、本当にゆっくり休みたかったのです。

なので、「教会に行くよ」と呼びに来る父の足音が聞こえると、たぬき寝入りをしてやり過ごすようになりました。また、「教会に行かないと不信心だ」と思う人が沢山いて、それも苦しかったのです。

もちろん、そうでない方も、牧師さんも、沢山いらっしゃいます。だから、私は、自分からそういう牧師さんのもとにいくようになりました。

「教会」という1つの集まりを通してではなく、直接神様とお話しし、お祈りし、語り合いたかったのです。

ですから、今でも教会にはいっていません。
でも、心の中では毎日神様と語り合っています。
神様の言葉に耳を傾け、神様から与えられているものに感謝して毎日を過ごしています。

ああ…こういう話しをずっとしたかったのです。
でも、この話が出来たクリスチャンは、自分の母と、それから尊敬するある牧師さんだけでした。とても怖くて他の方には話せませんでした。自分が不信心者であることをさらけ出すような気がして…。

なんか、信仰告白みたいですが、ほんとに今日の記事には共感を持ちましたのでコメントさせて頂きました。

投稿: コマちゃん | 2006年8月30日 (水) 02時04分

「炊き出しが」という言葉でハッとしました
うちの教会にも炊き出しがあるからです
からだがしんどい時はもちろんいけなくて
ハッピーな時は喧嘩ばっかりしてお話になりません
なので自粛しています
それに一回行っちゃったらそれからはレギュラーメンバーにされそうで嫌です
私はハッピーになるとすぐに喧嘩しちゃうから
友達も出来ないんです
悲しいなぁ

投稿: maria michaela | 2006年8月30日 (水) 07時54分

>>コマちゃんへ
共感のコメントをありがとうございます。

>でも、心の中では毎日神様と語り合っています。
>神様の言葉に耳を傾け、神様から与えられているものに感謝して毎日を過ごしています。

これこそ信仰の証ですね。

ただ,一点,誤解のないように付け加えておきますと,
カトリックは主日のミサ祭儀を大切にしています。
それで私は可能な限り行きます。それは,本文にも書いたように,
御聖体の秘跡を大切にしているからです。
そこから,「出て行く」わけです。

しかし,私の他の4人の家族は教会に行きません。
私は誘いません。
それでも妻の信仰は,私より篤いと思っています。

私は,教会に行かないと信者であることを忘れちゃうくらい不信心なのですよ。

投稿: ct | 2006年8月30日 (水) 13時30分

>>maria michaela

>私はハッピーになるとすぐに喧嘩しちゃうから

あらら,じゃあ,今度私と喧嘩しましょうか。

投稿: ct | 2006年8月30日 (水) 13時31分

ひさびさに、カキコいたします。私の教会「新宿シャローム教会」はプロテスタント教会です。「日本一元気な教会」を自負しています。
「教会」とは・・・「エクレシア」・・・「交わり」という言葉かに来ていますよね。このへんを考えていくことって・・・大切なのかも・・と考えさせられています。
個人的に・・・私は「オルガンチーノ神父」という織田信長の時代に活躍した神父さんを研究しているのですが・・・。彼は、いろいろな人と友達になるために、日本人の服を着て、貧民の住む長屋に暮らして・・・「教会」に興味を持ってもらうために日本のいろいろな風習を取り入れたりしたりして・・・あの「だんじり祭り」で有名な河内の人たちに福音を伝えました。人々はそんなオルガンチーノ神父を「うるがんぱーでれ」と親しく呼んだとの事・・・。私が今、親しくしている宣教師のGさんみたいな方なのかな・・・と思ったりしています。
私は・・・ジョン・ウエスレーが言った「全世界が宣教の地である。」という言葉を実行したいと考えています。
あと・・・「キリストの香り」を伝えるために・・・・自分は何かできるかをも、模索していたりします。今のところ・・・仕事のあいまに、いろいろなクリスチャン・アーティストのライブをお手伝いすることくらいしかしていませんけれど・・・ただ「クリスチャン・アーティスト」たちがいろいろなところで「キリストの香り」を放ってくれて、そして、教会に足を運んでくれたら・・・と思ったりしています。
この前・・・嬉しかったこと・・四谷のカトリック書店でカトリックの方が歌っているCDの中に「スピリットソング」という曲がありそれが流されていました。その曲・・・私たちの教会のメンバーが作詞して広まった曲でした。(^^)v

投稿: よこさま | 2006年8月31日 (木) 00時14分

Magisさま、こんばんわ。mixiご招待ありがとうございました。MIXIからとんできました。
>宗教は宣教すべきものではない
はっとしました。そうかもしれませんね。
私は信者ではありませんが、神様は信じているところがあります。宣教されたからではありません。

ズレてますか?

でも、宣教は押し付けとは違うとは思っています。

マインドコントロールはだめですけどね。それとははっきりと違うと思っています。

投稿: piyo | 2006年8月31日 (木) 00時40分

>>よこさま
コメントをありがとうございます。
>私の教会「新宿シャローム教会」はプロテスタント教会です。「日本一元気な教会」を自負しています。
ほう。都心の,それもど真ん中ですね。
「日本一元気な教会」ですか。
「明るく元気でのびのびと」をモットーにしている大和カルバリーチャペルを思い出しました。
大川先生には,随分と勇気をいただきました。
いまは,大和に行くことはなくなってしまいましたが。
一時は初台に「東京プロテスタント教会」ってのも作って宣教なさっていましたね。
オルガンチーノ神父,名前くらいしか知りません。きっとすばらしい福音宣教をされた方なのでしょうね。
ジョン・ウエスレー師のことも,大和カルバリーの大川先生がよく話しておられました。
四ッ谷のカトリック書店で「スピリットソング」が流れていたとのこと。
どんな歌でしたかね。タイトルに聞き覚えがあるので,多分歌ったことあると思います。
プロテスタントとカトリックの両教会で共通の歌,それも新しい歌が歌われることはすばらしいことですね!
ところで,ニュー・ライフの井澤先生が一昨年,突然不慮の死を遂げられたのはショックでした。
大和カルバリーチャペルで行われた葬儀に参列させていただきました。
では,また。

投稿: ct | 2006年8月31日 (木) 00時54分

>>PIYOさん

>私は信者ではありませんが、神様は信じているところがあります。宣教されたからではありません。
>ズレてますか?

全然ずれていませんよ。
こんなところに書いていいかどうかわからないけれど,
ときどき,ミサ後に,
教会をサロンか社交の場と心得ている輩に出会います。

ある神父様が,ミサ中のお話で
「ハッキリ言わせてもらいますが,
ミサ後,信徒会館で聖書の雑談をしているところには,
聖霊は働きません。たまには良いでしょうが,
毎週・毎週,”あの人はかわいそう。お祈りしましょう”なんて話している時間があったら,教会の外に出て行って,
何かしてきたらそうですか?!」とおっしゃったのを覚えています。
その神父さん,教会で,あまり評判は良くないのです。
でも,私は,大ファンです。

>宣教は押し付けとは違うとは思っています。

これもその通りです。
私は鎌倉に住んでいるので,
正月なんか寺院に参拝する人がすごく多いわけです。
そんな寺院の参道横で,
「イエス・キリストを信じましょう。さもないと罰が下ります」なんて言っているのを聞くと,
カトリックの私でさえ,鶴岡八幡宮(鎌倉の大きなお宮です)の方に逃げたくなっちゃいますよ。

>マインドコントロールはだめですけどね。

そうそう,要するに,「誘わない宗教」こそ本物なのだと思います。
そういう宗教の神様なら自然に受け入れられるでしょう?
僕も,誰かに誘われてカトリックになったじゃないし。

投稿: ct | 2006年8月31日 (木) 01時09分

「誘う」にもいろいろあると思います。
「これを信じればいいことがあるから」と「誘う」宗教もあります。私はこのタイプはあまり好みではありません(笑)

ただ、自分が信じて「良い」と思うことを、人に伝えるのは悪いことではないと思うのです。それが無理やりだったり、強引だったりしてはいけないとは思いますが。

私はカトリックに移りました。でも、心のそこにはプロテスタントで育てていただいた信仰がまだあります。これは今後も変わらないと思っています。カトリックは「宣教」はしないそうですが(むしろすべきではないと否定的なのですね)、私は「宣教」してもいいのではないかとも思っています。それによって信者ではない人の心が安らかになる場合もあります。
宣教は教会の中だけのものではありません。教会に誘うだけが宣教ではありません。
信者一人一人の行いがまた「宣教」につながることもあると思います。

マザーテレサの行いもまた、「宣教」につながってた科も知れません。マザー自身がそう思っていなくても、マザーの行いを見てカトリックを知り、関心を持ち、信仰を持つようになった人はたくさんいると思います。
ご存知だとは思いますが、プロテスタントの人たちの中にもたくさん「小さくされた人々」の中に入っていって活動をしている人もいます。確かにマザー・テレサのような方はいないのかもしれませんが。

ただ、プロテスタントと一口に言ってもさまざまです。本来、「プロテスタント」と全部を一まとめにした言葉は不適切なのかもしれません。その中にはおかしな「誘い」をするところもあるのでしょうが。

マジスさんの記事、とても興味深く読ませていただきました!
カトリックにはまだまだ未知なる部分(笑)があります。
これから少しずつ自分なりに考えて、信仰を強めて行きたいと思います。

投稿: michaela | 2006年8月31日 (木) 07時39分

すみません。
今本文を読み直して、ふっと思いました。

マジスさんのお考えの「宣教」と私の頭の中の「宣教」が違っているんですね。

私のいう「宣教」は信者を増やす宣教ではありません。
マジスさんが書かれている「福音を告げ知らせる」という意味での「宣教」です。
勉強不足で「宣教」と言う言葉の定義が「人々を誘う」と言うものかどうかはしりませんが、
私は文字通り「教えを述べ伝える」こととずっと考えてきました。
そうすると、マジスさんと同じ考え???ちょっとちがうかしら???

投稿: michaela | 2006年8月31日 (木) 07時45分

>>michaelaさんへ

わかりづらい文章でごめんなさい。
言いたいことは,
「教会に行っている人の方がそうでない人よりも,イエスを知っていて,イエスに近いので,それを,教会外の人に宣べ伝えにいく」というのではなく,むしろ,「教会に縁もないような虐げたれた人,蔑まれた人,小さくされた人の中にこそ,イエス様がおられるので,そこ(光のあるところ)に行って共に歩む」という道をカトリックは選んでいると言いたかったのです。もちろん,そうしているプロテスタント者もいらっしゃるでしょう。

投稿: ct | 2006年9月 1日 (金) 19時01分

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