« 慌てて口ごもる言葉 | トップページ | 大切なことは・・・ »

2006年9月24日 (日)

「甲斐性なしで何が悪いんや」

昨日は、「頑張れ」という言葉について書いてみたが、もう一つ、気になる言葉がある。それは、「根性」とか、(それとセットで使われる場合の)「情熱」という言葉だ。正しい情熱は、正しい研鑽によって得られる。研鑽なき情熱を、私は暴力だと思う。また、根性という言葉は、なぜか中学生の頃から性に合わない。単に好き嫌いの問題程度かもしれないが・・・。もうちょっと考えてみたい。

IT関係のワーキングウーマン(関西在住)であるぴよさんは、ブログうつらうつらとまどろみながらの最近の記事「オレの話を聞け!」の中で、

「計画の遅れを把握するじかんがあったら、根性でやるんや。やれる!やるきになったらいける!」(マジスの補足:これは新しくチームを組んだメンバーの言葉 )ですって。。。 末恐ろしくなりました。星飛馬やないんやから。。。こんな進め方するから(略)病になる人がおおいねん。

と嘆いておられる。

HONDAの創始者・本田宗一郎氏の言葉。

理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である。

私は、以前からこの言葉が好きだった。今でも好きである。特に、前半の「理念なき行動は凶器」という言葉はいつでもぼんやりと心の底に流れていたのだと思う。私は岐路に立った時、求める理念を確認し、とるべき行動を決めてきた気がする。

しかし、最近は、この言葉の後半がどうもしっくりこなくなってきた。2度目に出てくる「行動」を「行動または存在」と置き換えて考えている。なぜなら、存在だけで価値があるものが世の中にはあることを、歳をとるにしたがって知りつつあるからだ。それは、根性や情熱とはほど遠い、そう、「弱さ」とか「儚さ」に近いものだ。

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(Ⅱコリント12章9~10節 日本聖書協会 新共同訳)

ある神父様が、「甲斐性なしで何が悪いんや」と言ったことを思い出した。キリスト教は、間違えなく甲斐性なしや根性なしの宗教だと思う。(誤解のないように付け足しておきますが、そうでない人もいましたし、今もいます。たとえば、殉教者などです。しかし、彼等とて見方によっては、けっして強い人ではなかったのかもしれません)

|

« 慌てて口ごもる言葉 | トップページ | 大切なことは・・・ »

コメント

私のブログを引用いただきありがとうございます。

理念なき行動、本当に無駄かもしれません。暴力です。

言葉の暴力、強制の暴力ですよ。

一つ質問させてください。

>キリスト教は、間違えなく甲斐性なしや根性なしの宗教だと思う。

これはどうしてですか?

投稿: piyo | 2006年9月24日 (日) 00時08分

ひさびさのブログですね
確かに甲斐性なし(これはよくわかりませんが・・)や根性なしの宗教ですよね
まぁ私に根性なしなんて言われたらおしまいですけれどね・・・

投稿: くえちゅん | 2006年9月24日 (日) 06時01分

最近、聖アウグスチヌスの伝記を読んでいます。仕事はちゃんとしていたようですが、マニ教を信じ、結婚もせずに子供をつくるなど、結構とんでもない生活だったようです。
聖人でも回心する前はそんな状況なのですから、一般信者のわれわれは、自信をもって(?)「甲斐性なしで何が悪いんや」と言えますね。それでなかったらミサに行って心を改める必要ないですからね。
ぴよさんの件は、私もIT関係なのでそちらにコメントしました。

投稿: さかば | 2006年9月24日 (日) 22時20分

>>piyoさんへ

>>キリスト教は、間違えなく甲斐性なしや根性なしの宗教だと思う。
>これはどうしてですか?

なかなか本質的な質問ですね。いろいろと答え方を考えているうちに,この次の記事「大切なことは・・・」を書いてしまいました。
その中でも,マルコ福音書9章43節~47節から抜粋引用し,その箇所が私には「人間的な目で見れば大切なものが欠けているけれど,神から見れば逆に大切な光が備わっている。だから,生きていって良いのだ。いや,むしろだからこそ生きていって欲しい。あなたの命にはそれほどまでに特別な価値がある」と聞こえるのですという言い方で,piyoさんのご質問に答えた積もりです。
しかし,このコメント欄では,もう少し具体的にイエス様が言っている箇所を紹介します。同じマルコ福音書ですが,2章17節です。新共同訳聖書では,

(イエスは言われた。)「医者を必要とするのは,丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは,正しい人を招くためではなく,罪人を招くためである。」

となっています。この「罪人」はHamartolosというギリシャ語を訳したものなのですが,「道をふみはずした者」とも訳されます。(本田哲郎訳) 反対に正しい人とは,いわゆる「正統派の人」です。しかし,ここでイエス様自身がハッキリと言っているように,彼は「正統派の人」を招きに来たのではないのです。甲斐性なし,根性なしと人から言われるような,ある意味で,うまく人生を歩くことのできない人たちに道を示しに来て下さったのです。
案外,「頑張ればなんとかなる!根性だ,根性!」なんて言う人は,正統派に分類されるのかもしれません。今も,イエスの頃も。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年9月25日 (月) 17時50分

>>くえちゅんさん

>ひさびさのブログですね

そうなんです。

>確かに甲斐性なし(これはよくわかりませんが・・)や根性なしの宗教ですよね

ですよね。上に書いたpiyoさんへの説明も読んで下さいな。

>まぁ私に根性なしなんて言われたらおしまいですけれどね・・・

まあ,それは否定できないような・・・。
でもね,くえちゅんさん。
piyoさんのブログに「根性論を振りかざす上の人は終わってますね」というコメントが寄せられていましたよ。
コメントの主は,さかばさんです。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年9月25日 (月) 17時57分

>>さかばさんへ

>一般信者のわれわれは、自信をもって(?)「甲斐性なしで何が悪いんや」と言えますね。

お~お,そこまで開き直ってしまうのも凄いですね。
まあ,できるだけ甲斐性なしであることは隠していたいものです。
神様にはバレバレですが。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年9月25日 (月) 18時07分

ありがとうございます。ご回答いただいてわかりました。
正統派(根性でやるんやメンバ)ではなく、そういう雰囲気に苦しむ不器用な人をイエスはまっていてくださったのですね。(違ったらすみません)

それであれば、とても救いのある宗教だと思います。

くもの糸がたらされたきもちになるんだろうなと。このことをきいたら、そう思うと、すくわれるとおもいました。

わたしのかいしゃくちがうかもしれないけれど・・・

投稿: piyo | 2006年9月26日 (火) 23時17分

はじめまして☆教員志望の大学生の茶といいます。
Magisさんの文章を読んで、「心貧しい人は幸いである~」の聖
書箇所を思いました。
あたしは障害を持っている人たちや子どもたちのような、社会
的には弱いとされる人たちの側にいると、神様を強く感じる事
ができるように思います。弱いからこそ神を求め、神に委ねる
ことができる。弱さを隠さず委ねたいと改めて思いました。

投稿: 茶 | 2006年10月 1日 (日) 01時24分

>>茶さんへ

初コメントありがとうございます。
教員を志望していらっしゃるのですね。
どうか希望が叶いますように!

>障害を持っている人たちや子どもたちのような、社会
的には弱いとされる人たちの側にいると、神様を強く感じる事
ができるように思います。

本当にその通りだと私も思います。
本田哲郎著『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)はお勧めです。

投稿: ct(Magis) | 2006年10月 5日 (木) 22時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136539/12012655

この記事へのトラックバック一覧です: 「甲斐性なしで何が悪いんや」:

« 慌てて口ごもる言葉 | トップページ | 大切なことは・・・ »