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2006年11月 6日 (月)

僕の生まれ故郷は横須賀の浦賀というところです。
家はいわゆる商工業地域にあったので庭がありませんでした。
建物自体は古かったものの比較的広い方でした。
しかし,敷地いっぱいに建ててあったその家には庭がありませんでした。
だから,子どもの頃から,庭のある家に憧れていました。

その後,学生時代は何カ所かアパートに一人暮らしをしました。
当たり前ですが,庭などあるわけがありません。

結婚して独立したのですが,最初に住んだのはマンションの2階。
次に住んだのもマンションの2階でした。
その次に住んだのは,妻の実家でしたが,
ここもまた商業地区であったため,庭はありませんでした。
花好きの妻は,狭い玄関先に,所狭しときれいな鉢植えの花を育てていましたが,
心ない人にいたずらされ,荒らされ,結局,そこでは花を育てることを断念しました。

1年半前に今の住まいに越してきたのですが,
ここは高度成長期に山を削ってできた分譲地で,
風致地区に指定されています。
建坪率も特別厳しく,植える木の大きさや本数まで決められています。

必然的に,まあまあの広さの庭ができたわけです。
高木・中木・低木は外構工事の時,業者にやってもらったのですが,
植えたばかりの木々の間にはまだまだスペースがあります。
それで,妻はときどき,園芸店に苗木を買いに行き,育てています。
私は妻のそういう姿を見るのが大好きです。

ところで,2ヶ月くらい前に,妻と園芸店に行き,
ベコニアの苗を20本ほど買ってきました。
妻は買うことは好きなのですが,
ときどき,それだけで疲れてしまい,植えるまでに時間がかかることがあります。
なので,今回は1ヶ月くらい経って,私も手伝って妻と一緒に植えました。

連休最終日の今日,私は冬を迎える前に,庭の草むしりをしました。
久しぶりにおんぶバッタを見ました。
嬉しくなって,庭から見える部屋にいた三女に声を掛け,一緒に見ました。
そうしたら,「たくさんいる,たくさんいる」と言って驚いていました。
その声を聞いて,妻も窓から庭をのぞいていました。
妻は小さいバッタは「バッコちゃん」とか呼んで可愛いと言いますが,
おんぶバッタは好きじゃないようです。

1ヶ月前に,妻と2人で植えたベコニアの花は,
とても丈夫に育ち,とてもきれいな花を咲かせていました。
デジカメがここ数日見つからず,ベコニアもおんぶバッタも写真を載せられないのが残念です。

一週間ほど前に,ある田舎の町で,70歳くらいの年配の男性と立ち話をしました。
ずいぶん長いこと話しているうちに,
ご自分の娘さんが,「雅子さまみたいな病気」(男性の言葉をそのまま使っています)になってしまったことをきっかけに,都会からその山間の田舎町に引っ越してきたと,その男性は話して下さいました。
それまで,ずいぶん長いこと患っていた娘さんは,すっかり良くなり,
いまでは,働けるようになるまでに快復したそうです。
一時は人に会うのはおろか電話にも出られない状態だったそうです。
不思議なものだけれど,自然の治癒力,緑の治癒力はすごいとその年配の男性は
そこの自然に,そして,そこに生きる,のんびりとした人々に感謝していました。

妻と植えたベコニアの花は,どれもきれいに立派に育っています。
でも,それらの花の中には,何の苦労もなくきれいに花を咲かせているものと,
枯れそうになるのを必死にこらえてきれいに花を咲かせているのかもしれないと
なんとなく思ったりもしました。
多分,次の加藤諦三の文章を昨日読んだからでしょう。

死んで当たり前の人が生きているのと,生きているのが当たり前の人が生きているのとは違う。
死んで当たり前の人は,生きていることだけで価値がある。

(『心の休ませ方』PHP文庫 p.41)

後者として生きる人が増えていることを実感しています。
人間は花と違って,花を咲かせることだけが生きることではないですね。

(注)加藤諦三氏の文章の引用中,「死んで当たり前の人」とは,もちろん死んでいい人ではありません。「生きていることだけで死ぬほど辛い人」のことです。

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コメント

良いお話で、心に響きました。どんなに自分がダメだと思っても、その苦しみを超えて生きていることが、とてもすばらしいことなんですね。

でも、あえて言わせてください。死んで当たり前の人なんていません。人によって大きさや色は違っても、咲かせる花はあると思います。バラのように立派な花でなく、ツユクサのような花かも知れませんが、とても素敵な花だと思います。ただ、その花に気づいていないだけだと思います。

投稿: さかば | 2006年11月 6日 (月) 01時24分

>>さかばさんへ
コメントをありがとうございます。
>でも、あえて言わせてください。死んで当たり前の人なんていません。
そうです。さかばさんの仰る通りです。
加藤諦三氏の文書をそのまますっぽり引用したので,
誤解されますね。
最初にアップしたあと,文書の最後に(注)を付けておきました。
ここで加藤氏がいう「死んで当たり前の人」とは,
いろいろな事情があって「生きているだけで精一杯の人」のことです。
加藤氏は,このような人が生きることは,いわゆる健康な人が生きるより大変なことなのだと言っています。
そんな風に生きる人が私の周りにはいます。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年11月 6日 (月) 01時34分

注釈がついていたので、とてもよくわかりました。
雅子様はやはり鬱病なのでしょうか?外交官としてバリバリやっていて、皇室であれもいけない・これもいけないと縛られてついに壊れてしまったのでしょうか?それであれば、とても残念です。

ココロの病は根が深いものです。うちの会社にも沢山います。本当に辛そうに会社に来ます。
まじめな、頑張りやさんばかりだとおもいます。
はじめはおとなしい人に多いのかと思っていたら、最近一年下のめちゃくちゃ明るい男の子(といってもおっちゃんですね)が躁うつ病で長期休暇に入っていることを聞いて驚きました。

私も無理をするのはやめました。
休みたいときには休みます。
頑張りたくないときには頑張りません。

昇格したいとずっとおもっていましたが、もうそれもどうでもよくなりました。(会社で花がさかなくてもよい)

ココロの向くままやっていきたいとおもいます。

そうでないと、つぶれてしまいますから。

投稿: piyo | 2006年11月 6日 (月) 09時54分

人間も動物だから自然と触れていると、生物本来の感覚が戻るのかもしれません。生きていることはそれだけですばらしいことなんですね。

投稿: みちる | 2006年11月 6日 (月) 11時14分

注釈ありがとうございました。
たぶん、本人が「死んで当たり前」と思うほど苦しい状況だと思っていましたが、注釈を入れていただいてすっきりしました。

投稿: さかば | 2006年11月 6日 (月) 12時29分

花が美しいのは、自分のもつ力を存分に
使って他とくらべるでもなく、ただそこに
存在するってことなのかと私は感じます。
でも、MAGIS 先生がおっしゃるように、
自分達人間がこうして生きていることに当たって、もっと想いをもってもいいと思います。
私は自分の価値を見出すのがヘタクソなほうだと
感じますが、周りの人との関わりから
自分にはこの方々の何か役に立つために出会わせて頂いたんだと思うと、周りの方を通して
自分の価値がぼんやり見えて来る時もあります。
もっと自分と自分の周りに気持ちを
映してみることが今生きることの意味にも
繋がると思うのです。
なんだか脱線してしまいました、ごめんなさい。
先生の文で、とても共感できる自分が
ちょっと嬉しく思います。先生ありがとう。

投稿: chika | 2006年11月 6日 (月) 14時27分

生きているのが当たり前の人が死んでいるのは私だけでしょうか?

投稿: くえちゅん | 2006年11月 6日 (月) 18時10分

>>piyoさんへ

コメントをありがとうございます。
>私も無理をするのはやめました。
>休みたいときには休みます。
>頑張りたくないときには頑張りません。
>・・・
>そうでないと、つぶれてしまいますから。
本当にその通りですね。
ぼちぼちと歩いて行きましょう。
周りの景色を楽しみながら。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年11月 6日 (月) 23時09分

>>みちるさんへ

コメントをありがとうございます。
>生きていることはそれだけですばらしいことなんですね。
そうだと思います。
生きやすい人と生きにくい人がいると思いますが,
究極的には生きていることを超えるすばらしいものはないですよね。

投稿: ct(magis) | 2006年11月 6日 (月) 23時11分

>>さかばさんへ

再びのコメントをありがとうございます。
>本人が「死んで当たり前」と思うほど苦しい状況だと思っていましたが、注釈を入れていただいてすっきりしました。
最初のさかばさんのコメントがなかったら,
注釈を入れることも思いつかなかったでしょうから,
ブログを読む方々に誤解を与えていたと思います。
フォローしていただいて助かりました。
ありがとうございました。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年11月 6日 (月) 23時15分

>>chikaさんへ

コメントをありがとうございます。
>周りの人との関わりから
>自分にはこの方々の何か役に立つために出会わせて頂いたんだと思うと、周りの方を通して
>自分の価値がぼんやり見えて来る時もあります。
本当にその通りだと思います。
自分の価値は他者と関わることによってわかると思いますし,
実際に他者と関わることによって価値を得ているのだと思います。

>・・・
>なんだか脱線してしまいました、ごめんなさい。
いいえ。全然脱線していないと思いますよ!
素晴らしい気づきをたくさん書いて下さって嬉しいです。

>先生の文で、とても共感できる自分が
>ちょっと嬉しく思います。先生ありがとう。
そう言われた私はもっと嬉しいです。
ありがとうございます。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年11月 6日 (月) 23時20分

>>くえちゅんさまへ

>生きているのが当たり前の人が死んでいるのは私だけでしょうか?
結構,辛いコメントですね・・・。
私は,「生きているのが当たり前の人」はそれほど多くないと思っています。

投稿: ct(magis) | 2006年11月 6日 (月) 23時23分

昨日、教会で開かれたセミナーに参加し安倍仲麻呂司祭のお話を伺ってきました。題名が「花は花でないから花である」でした。MAGIS様の日記に「花」とあったので、どんなことが書かれているのかと思わず開いてしまいました。誰に気付かれずとも自分らしく咲いていられたらと思います。

投稿: タメ子 | 2006年11月19日 (日) 22時34分

>>タメ子さんへ

初めてのコメントありがとうございます。
昨日の安倍仲麻呂神父の話,聞きたかったです。
都合がどうしてもつかずに惜しい気持ちです。
せめて講演の要旨だけでも,藤沢教会の会報に載れば良いのですが・・・。
といっても,私は藤沢の信徒ではないので会報を見るチャンスにも
滅多に恵まれません。
用事があって月に一回藤沢教会には足を運んでいます。
タメ子さんは私をご存じの方でしょうか?
もし,そうであれば,今度教会で見かけたらお話を聞かせてください。
今後ともよろしくお願いします。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年11月19日 (日) 22時42分

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