自分が負った過去の傷を手放す
ジェラルド・G・ジャンポルスキー著,大内博訳『ゆるすということ』(サンマーク文庫 2006年)という本を読みました。
次の症状はほとんど私が慢性的に経験しているものばかりです。皆さんはどうでしょうか?
頭痛,腰痛,首の痛み,胃炎や潰瘍,憂鬱,元気が出ない,焦燥感,イライラする,緊張・不安感,不眠症・落ち着かない,漠然とした恐怖,不幸せな気持ち
これらは,ジェラルド・G・ジャンポルスキーによれば,人が人を「ゆるさないことで起こりうる症状の,ごく一部」(p.64)だといいます。
もちろんこれらの症状の原因のすべてが人をゆるさないことなどとは思えませんが,
私の拙い経験から考えると,他に身体的な要因がないのなら,原因をそこに求めることは的外れでない場合が多いと思います。
ところで,ゆるすという行為はすぐれて主体的な行為です。
本当はゆるしとは神の恵みによるものであり,
ゆるすもゆるさないも神の決めることです。
そして,神は,はじめからゆるしゆるされる気持ちを与えたくて
人とともにいつも一緒に歩んでいてくださる方です。
しかし,人は普通そのことに気付きません。
だから,「ゆるせない」気持ちになるのです。
しかし,それは本来の神と人間の関係に反します。
神は人をゆるし,また神は人に,ご自分がなさっているといるのと同じように
人に,人(他人だけでなく自分も)をゆるすようにすすめておられる方だからです。
だから,ゆるさないと人は苦しくなる。
「ゆるさないと決めれば苦しみを味わうだけ」(p.52)なのです。
それが心身の症状として現れたのが,冒頭の方で書いた「頭痛,腹痛,・・・,不幸せな気持ち」なのです。
ところで,人をゆるすとはどういうことなのでしょうか?
それは,相手がした(自分への)行動を容認することではありません。
もちろん,肯定することでもありません。
ゆるしは相手のあり方とは無関係な主体的な行為なのです。
そもそも相手を変えようなんて思うことは,意味がありません。
なぜなら,それならば,ゆるすという行為は相手に依って規定されてしまうからです。
ゆるすという行為は,あくまで,主体的・個人的な行為なのです。
ゆるそうと思っている相手が,すでに遠く離れている場合も多いでしょう?
ゆるすとは,相手の私に対してした行為を容認したり,肯定したりすることではありません。
ゆるすとは,自分が負った過去の傷を手放すことです。
自分を手放し,
「怒りと苦しみのすべてを神さまにゆだねること」(p.75)なのです。
私はかつて,ベトナム人のある神父様から,
「あなたが被ったひどい行為や思いを紙にかいて,
トイレのゴミ箱に捨ててきなさい」
と言われたことがあります。
それは,その神父様も苦しいときにときどき行うことなのだそうで,
私が苦しみを打ち明けたときにすすめて下さいました。
私は自分が置かれた状況,当時の職場で受けた不当な扱い(と自分が思っていたこと)に
怒り,怒り,挙げ句に,気力をなくしていた時期でした。
私は神父様の言われたとおりに,
人や組織から被った行為と思いを紙に書いて,
トイレのゴミ箱に捨てました。
考えてみれば,あのとき私が捨てたのは,
被ったひどい行為や,思い浮かんだ人たちではなく,
そのときに自分が負った傷の方だったと思います。
ゆるすことを忘れて苦しむ自分とつきあうのを,
神さまはどのようにごらんになっているのでしょうか?
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コメント
良いお話をありがとうございます。私が今までで最も「ゆるす」に近いことができたのは、遠藤周作著「キリストの誕生」を読んで素直になれたときです。問題のある人だけでなく、自分の中にある問題を認めることができました。その時、ようやく怒りが消えました。
しかし、自分の中に問題が見出せないときは、なかなかゆるせません。傷を手放そうとすると、かさぶたが取れて血が出そうな気がします。傷を手放すには過去と思えるような時間も必要なのでしょうか。ゆるすと言うのは難しいと思います。
もしかすると、紙に書いて捨てるという行動を実際に行うことがポイントなのかもしれません。取ると痛いと思っていたかさぶたも、実は勇気がなかっただけで、神さまに唾をつけてもらったら、案外平気なのかもしれませんね。
投稿 さかば | 2006年11月27日 (月) 02時00分
自分がしたひどいことを思い出して苦しむ、こういうことってありますね。
この文章を拝見して思ったのは、「いじめ」をした側の人間もいつかこうやって苦しむことがあるのかということ。
どうか、そうであってほしいと祈るばかりです。
人を傷つけると、本来は自分も傷つくものだからです。
投稿 piyo | 2006年11月27日 (月) 09時09分
読みながら涙が止まりませんでした。
心にグサッと突き刺さりました。
私はかつて、ある人から自分の気にしている事、
コンプレックス(自身の内面の部分の事)を人前で
「このひとは××だから・・・」と、
嘲笑するように言われたことがあります。
私は自分自身のその部分に関して自信もありませんでしたし、
何も言い返せませんでした。
私はその人が未だに許せないでいます。
プライドがズタズタになった時、初めて
自分にも”プライド”というものがあったんだとわかりました。
許すという事は、受け入れる事だとずっと思っていました。
受け入れなくていいんですね。
相手を肯定なんて絶対できなかったので
ずっと苦しんでいました。
私も、紙に書いてトイレのゴミ箱に捨ててみます。
私の今の心に、ダイレクト直球のお話、ありがとうございました。
投稿 hunhun | 2006年11月27日 (月) 10時24分
>>さかばさんへ
いつも読んでいただいて,さまざまなコメントをして下さっていることに感謝いたします。
>遠藤周作著「キリストの誕生」を読んで素直になれたときです。
「素直」ってキーワードですよね。
元々(素々)人間は神の似姿として造られたもの。
だから元通り(素通り)真っ直ぐに生きれば神様の心をいただける。
それが「素直」に生きるということなのでしょうね。
また,
>自分の中にある問題を認めることができました。その時、ようやく怒りが消えました。
やはり,怒りを捨てる(=ゆるす)ことは,すぐれて主体的な行為なのですね。
投稿 ct(Magis) | 2006年11月27日 (月) 23時36分
>>piyoさんへ
いじめに関しては,いじめた側が100%悪いと思います。
しかし,いじめた側が,いじめた自分にゆるしを乞う(相手にではなく絶対者に)行為と
いじめられた側が,いじめられた自分を(絶対者に)空け渡す行為は
どちらも,すぐれて主体的な行為だと思います。
どちらも,一歩前に踏み出さないとできない行為ですから。
投稿 ct(Magis) | 2006年11月27日 (月) 23時43分
>>hunhunさんへ
はじめまして!
コメントをありがとうございます。
>私はかつて、ある人から自分の気にしている事、
>コンプレックス(自身の内面の部分の事)を人前で
>「このひとは××だから・・・」と、
>嘲笑するように言われたことがあります。
それは,なんとも辛い経験ですね。
そんな経験をここに書き込んで下さったことに
改めて感謝と敬意を表します。
>プライドがズタズタになった時、初めて
>自分にも”プライド”というものがあったんだとわかりました。
お辛い中にも「気づき」があったことを冷静に観ることができたのですね!
>許すという事は、受け入れる事だとずっと思っていました。
>受け入れなくていいんですね。
そうですとも!
良く言われることですが,
過去と相手は変えようがありません。
もし,変えられるものがあるとすれば,
自分自身ですよね。
自分の傷をいつまでも大事に取っておくのか,
自分の傷を手放して,新しく一歩を踏み出すのか。
この選択は,自分自身に委ねられた最高の自由です。
お互い囚われ人からの解放を祈り合いましょう。
>私の今の心に、ダイレクト直球のお話、ありがとうございました。
いえ。こちらの方こそ感謝です。
いくら私が直球を投げても受け取って下さる人がいないと,
キャッチボールは続きません。
hunhunさんのようにコメントして下さる方がいて下さるので,
またブログを続けようという気持ちになります。
ありがとうございました。
投稿 ct(magis) | 2006年11月27日 (月) 23時59分