« 『日本の父へ』 | トップページ | どんな信念? »

2006年12月 2日 (土)

退屈の専門家

061202 今日は,臨床パストラルケア教育研修センター主催の一日研修会に出てきました。臨床パストラルケアとは,「患者や家族,その友人,医療従事者のスピリチュアルな痛みやニーズに寄り添うこと」と,同センターは定義しています。

今日の一日研修会のテーマは「患者さん訪問」。講師は同センター所長で,レデンプトール会司祭のウェルデマール・キッペス神父(ドイツ人)。

訪問前の心構えから,訪問の実際,訪問後にすべきことまで,実際に即した基本事項を学びました。
基本は,義務感やボランティア精神から訪問するのではなく,訪問させていただく相手から学ばせていただく姿勢を持つということでした。

そうした姿勢を持った上での,具体的な留意点も学びました。
たとえば,入院病棟を訪れる際,ハイヒールなどは厳禁(あの音が患者の精神に及ぼす影響はばかにならないとのことです)であること。贈り物も必ずしも喜ばれないことなどを学びました。
ところで,患者さんを「病人」として扱うのではなく,「病気を持った人」と扱うこと
というお話しを聞いたときハッとしました。
「あの人は心臓病なんだって」という言い方をしばしば耳にしますが,
ここには,「人」=「病気」という対応関係が成り立ってしまうというのです。
そうではなくて,「人」はあくまで「人」なわけで,その人が「パート」として「病気」を持っているだけのことなのですね。
最近の医療機器の進歩に伴ったデータ主義にも注意が促されました。
患者を見ずにデータだけを見て,ものを言う医師も(少数なのでしょうが)いるというお話も出てきました。
この辺りは,講師のキッペス神父様が心臓の手術をした経験から話されました。
神父様は,「私は否定的なデータより希望が大事と思う」と話されました。
同センターでは,「臨床パストラルケア」に「スピリチュアルケア」とルビをふっています。私が今日学んだ一番大きなことは,「スピリチュアルケアを提供する人は,退屈の専門家であること,退屈を肯定的思考で耐え忍ぶことが要求される」(ウェルデマール•キッペス著『スピリチュアルケア』サンパウロ 1999年 p.283)という命題でした。なぜなら患者さんには,退屈が要求されているからです。特に重症な患者さんには一日中の退屈が強いられています。スピリチュアルケアとは,そのような患者さん本人,そして家族と寄り添うことです。ですから,ケアする人にも退屈を耐え忍ぶことが求められるということでした。

|

« 『日本の父へ』 | トップページ | どんな信念? »

コメント

はじめてこちらにコメントです。こんにちは。
私も母が癌で、2004年に帰天しましたが、最後の4ヶ月くらい病院に私も暮らしている状態で看病をしました。
「看病」というと、さも親孝行でエライと思われそうですが、日々普通に喧嘩しながらの日々で、最後まで喧嘩したり笑ったり、泣いたり、充実した最後の時間を持つことが出来ました。
逝ってしまったときは、オイオイと泣いてしまいましたが、担当医の先生が肩に手をおいて、「こんなに最後まで仲良く、喧嘩してる姿を見れた事は私も心に残りました。いい時間を過ごされましたね」と言われて、本当に嬉しかったです。
「病気」「重傷」「ホスピス」などと並ぶと暗くなりがちな日本人ですが、おっしゃる通り、「病気の人」と病気に所属するのではなく、「人」に病気がくっついてくるだけです。
元気でも病気でも同じに過ぎていく「時」を大事にしないとですね。

投稿: Giovanna | 2006年12月 3日 (日) 15時56分

>>Giovannaさん

>はじめてこちらにコメントです。

そうですね。どうもありがとうございます。
とても嬉しいです。

お母様と最期まで「仲良く」喧嘩しながら,
時間を共有したという素晴らしい体験をお聴かせいただきましてありがとうございます。

Giovannaの場合は,退屈する間もなく,
お母さんをお見送りすることが出来たのですね。

さて,天国で再会したときに・・・,
喧嘩のつづきが始まるのか?
楽しみですね。

投稿: ct(MAGIS) | 2006年12月 4日 (月) 11時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136539/12908160

この記事へのトラックバック一覧です: 退屈の専門家:

« 『日本の父へ』 | トップページ | どんな信念? »