無理なら私がついてゆきます
私についてきなさい。
無理なら私がついてゆきます。
冒頭の句は,~祈りを深めるために~というホームページに書いてあります。
イエズス会司祭(私に洗礼を授けてくださった神父様)が協力者として名を連ねています。
一行目の,「私についてきなさい」というニュアンスのことを,イエス様は,熱心に弟子や人々に語っていたことを聖書は伝えています。たとえば,マタイ福音書16章24節などです。
しかし,「無理なら私がついてゆきます」に該当するような記述はないような気がします。近いものとしては,同じマタイ福音書の28章20節後半の「わたしは世の終わりまで,いつもあなたがたと共にいる」という記述でしょうか。
それにもかかわらず,私は,この2行目の「無理なら私がついてゆきます」にとても惹かれるし,私にとっての神はこんな方です。
なぜなら,私が神についてゆこうと思っても,いつも遠くにかすんでしまい,いつでも見えなくなってしまうからです。
しかし,そんなときに,「無理なら私がついてゆきます」と仰有る神が後ろにいるという。
また,ときには抱きかかえて歩いてくださるという。
これも聖書のどこを探しても書いてはない。
たしかに,聖書を読んで神のことを「理解」している人はいる。
しかし,神は理解を超える存在。
神はけっして聖書だけを通して語りかけているのではない。
そう思う。
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コメント
聖書の記述にない記述が見えてくる。
そういう経験は、わたしもあります。
「神さま」という存在は、聖書や、教会からだけ語りかけてくるものではないと。
そういう感覚、ものすごくわかります。
投稿: コマちゃん | 2008年9月 6日 (土) 07時20分
無理ならわたしがついていきます。
私はクリスチャンではありませんが、どこかで神様を信じているところがあります。
心にやましいことをしそうになったとき、神様が見ているように思います。
だから、「あ、やめとこ」と思います。
ほかの人にとってはどうだかわかりません。
でも、自分はうそをついたりすると不幸への預金がされてしまうように思うのです。
正義のための嘘、人を傷つけないためのウソはそうではないのでしょうが。。。
いつもまっすぐでいたいと思うのは、神様はそばにいると、思っているところがあるからです。
投稿: piyo | 2008年9月 6日 (土) 14時30分
>>コマちゃん
またまたコメントをありがとうございます。
神様は意表をついて,語りかけてきますね~。
投稿: magis(管理者) | 2008年9月 7日 (日) 01時03分
>>piyoさん
>いつもまっすぐでいたいと思うのは、神様はそばにいると、思っているところがあるからです。
ああ,このブログに下さるpiyoさんのコメントは,
いつでも,こういうふうに直球でしたね。
>私はクリスチャンではありませんが、どこかで神様を信じているところがあります。
神様にとっては,人がクリスチャンであるとかないとか,
そういうことは関係ないのでしょうね~。
投稿: magis(管理者) | 2008年9月 7日 (日) 01時07分
ブログが再開されてうれしいです。
神さまが私を抱きかかえてくださるというところですが、聖書にあります。
イザヤ46,3-4に出ています。
読んでみてください。
これは、無理なら私がついていこうという意味にも読めるでしょうか。
投稿: A太郎 | 2008年9月22日 (月) 22時19分
>>Fr.A太郎様
コメントをありがとうございます。
早速,イザヤ書を開いてみました。
ああ,そうでしたね。
「わたしの目にあなたは値高く,貴く
私はあなたを愛し
・・・
恐れるな,わたしはあなたと共にいる」
私の聖書の中で,最も手垢の付いたページでした。
投稿: magis(管理者) | 2008年9月22日 (月) 22時43分