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2010年10月31日 (日)

罪を見過ごされる神

101031b阿部仲麻呂神父。「あべなかまろ」と読みます。
遣唐使に同行し,長安に留学し,科挙に合格した歴史上の人物・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と良く似たお名前ですが,二文字目が,「あべなかまろ」さんの方は「部」,歴史上の「あべのなかまろ」さんの方は「倍」です。

その阿部仲麻呂神父様は,サレジオ会という修道会の司祭であり,かつ,現代の日本を代表する神学者のお一人で,大学や大神学院で教鞭を執っておられます。
その阿部神父から,3年ほど前に,神父様自身の著書『神さまにつつまれて』をいただきました。

さて,今日のカトリック教会の第1朗読は,『知恵の書』。この書は,カトリック教会だけが正典と認めている「旧約聖書続編」の中の一つなので,聖書の中では知名度の低い文書です。
しかし,カトリック教会は,この『知恵の書』を大事にしており,今日の典礼(ミサ)でも読まれました。
読まれた箇所は11章22節~12章2節まででしたが,私はこのうち,11章23節~26節が,聖書の中でも好きな箇所の5本の指に入ります。その日の気分によっては,「一番好きな箇所」と言っても過言ではないかもしれません。
引用しますと,

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ,回心させようとして,人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し,お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら,造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し,あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ,すべてはあなたのもの,あなたはすべてをいとおしまれる。
(知恵の書11:22~26)

私は,特に,罪の状態に陥りやすい私たちを憐れみ「回心させようとして,罪を見過ごされる」という点にグッとくる。
本当に何度,私は罪を見過ごされてきたことか。
しかも,大罪になる寸前で,逃れたことが何度もある。
その度に,(神さまに)「裁かれなくて良かった」という気持ちが心を過ぎる。
そして,その都度,上の聖句を思い出し,
「ああ,また回心に招かれている」と思う。
そして,しばらくはその恵みを忘れずに過ごすのだが,
また,すぐに弱さから,「見えなくなり」,罪を犯す。

その罪とは何か。
あまりに多すぎて挙げきれないが,
まず,現実的な,生活上の罪。
つまり,家族をはじめ周囲に嫌な思いをさせたり,傷つけたり・・・・・。

それから,遠藤周作が『沈黙』の中で言っている「人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れる」という罪。この見方でも,家族や友人の人生の上を烈しく通過していることによる罪は大きい。

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2010年10月25日 (月)

奇跡の生還

昨日(10/24)に放映されたNHKスペシャル『奇跡の生還』は,チリの鉱山落磐事故によって地底深くに70日間閉じ込められた人々がどう生活をしていたか,また,それを救出するために地上ではどんな人たちがどんな思いでどのように働いていたかを伝える速報番組であった。

番組は前者(地下での生活)に重きがおかれていたが,私は後者(救出にたずさわった人々)の姿が,聖書の「中風の人をいやす」場面の「四人の男」に重なって見えた。
四人の男は,次の引用の四人の男である。

数日後,イエスが再びカファルナウムに来られると,家におられることが知れ渡り,大勢の人が集まったので,戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると,四人の男が中風の人を運んで来た。しかし,群衆に阻まれて,イエスのもとに連れて行くことができなかったので,イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ,病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たち信仰を見て,中風の人に,「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。その人は起き上がり,すぐに床を担いで,皆の見ている前を出て行った。(マルコ2:1~2,12a)

この奇跡物語は,聖書の中では,いわゆる「癒しの奇跡」に分類される。「癒しの奇跡」で救われる人は,こぞって,「あなたの信仰があなたを救った」とイエスに言われる。
しかし,この「中風の人のいやし」はちょっとだけ違う。この中風の人は,自分でイエスのところにやってきたのではなく,四人の男に「運ばれて」イエスのところにやってきた。ところが,大勢の人に阻まれて,イエスのいる家に入ること出来なかった。すると,四人の男たちは,中風の人を連れたまま,屋根に登り,穴をあけて,イエスのいる前に担架に載せたままの中風の人を吊り下げたのだ。それを見たイエスは,屋根に穴をあけた四人の男の信仰を見て,中風の人を救った。

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2010年10月24日 (日)

命から命へ

一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが,死ねば,多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は,それを失うが,この世で自分の命を憎む人は,それを保って永遠の命に至る。(ヨハネ福音書12章24・25節)

 101024lj_3 若い頃,長い間悩んでいたとき,この聖書の一文を読んで,ハッとしたことを今でも鮮明に覚えている。
  その頃,大学一年生だった私は,まだキリスト教のことはほとんど何も知らなかった。聖書も持っていなかった。だから,上述の聖書箇所も,ある本の中で読んだ。その本は,大学の一般教養で「美術史」という科目を担当していたジョセフ・ラブ(本名)という名前の教授が書いた『教えるヒント学ぶヒント』(新潮選書)という本の中に書いてあった。私はこの科目を履修していて,その先生から直接,この本を購入した。
 先生のことは,「ラブさん」と呼んでいた。優しい先生だったが,レポートの評価は厳しかった。その後,大学を辞められて,現代画家としての創作活動に専念したとうかがっている。

 あの頃の私は,何かにしがみつき,あるいは,過去に囚われ,前進できずにいた。そんな精神状態で読んだ「一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである」は,まるで自分自身を指しているように思えた。何の生産性もない日々を何年間も過ごしてきたからだ。 

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2010年10月22日 (金)

「人間失格」・「ヴィヨンの妻」

Dazai_2 Project BUNGAKUという企画の芝居が,9月30日から10月10日の日程で上演されていた。
ワーサルシアターという,八幡山(京王線の上北沢と芦花公園の間の駅)にある,80名定員の芝居小屋,というか稽古場のようなところで上演された。
この企画は,若手新鋭の演出家4名が,各々持ち時間20分間で,太宰作品を一つ芝居に仕立て上演するというのもの。
4名の新進演出家各々が一つずつが選んだ作品は,「Human Lost」,「燈籠」,「ヴィヨンの妻」,「人間失格」であった。個人的には「桜桃」が入っていなかったのは惜しいが,すべて見応えがあった。
「燈籠」や「ヴィヨンの妻」などは,おそらく朗読するだけで20分で終わってほどの長さの作品である。「Human Lost」は太宰が脳病院(精神科病棟)に入れられている1ヶ月ほどの日記。「人間失格」は太宰の中では長編。それぞれ、演出家はどうやって仕立てるんだろうと思い,とにかく初日から観に行ってみた。

これが,大当たりだった。

80名定員の客席は,ちょうど満員になるくらいにチケットはさばけた様子。
4作品,それぞれ若手演出家の持ち味がよく出ていたが,何と言っても「人間失格」が傑出していたように私は思った。
演出家の谷賢一氏の構成と主人公・葉蔵役のコロさん(柿喰う客)の演技,特に葉蔵の表情づくりが素晴らしかった。
小説「人間失格」は,文庫で読むと200ページくらい(だったかな)の作品だから,僕だったら読むのに(今はやりの速読は大嫌いなので)数時間はかかる。
しかし,この芝居の上演時間はたった20分。
なのに,劇を見終わった後,原作を全部読んだのと同じ重厚感(変な言葉ですが)を感じた。
この芝居,おそらくもう上演される機会はないと思うので,本当に見て良かったと思います。
あまりにも,良かったので,楽日(この日はチケットが売り切れだったので)の前日にもう一回観に行きました。

ところで,芝居としては「人間失格」に引き込まれたけれど,印象に残った台詞は「ヴィヨンの妻」での大谷・主人公(多分太宰自身がモチーフ)と妻の遣り取り。

大谷「・・・,おそろしいのはね,この世の中の,どこかに神がいる,という事なんです。いるんでしょうね?」
妻「え?」
大谷「いるんでしょうね?」
妻「私にはわかりませんわ」
大谷「そう」

月並みですが,太宰の,神を畏れ,神を求める気持ちがストレートに表現されている箇所だと思います。

それと,小説の結末。新聞で「人非人」と酷評されている夫・大谷が,妻に対して,自分は人非人なんかではないと弁明したとき,妻が返す言葉。

「人非人でもいいじゃないの。私たちは生きていさえすればいいのよ」

なんだか,私が言われているような気になりました。
まるで,高校生のときのように。

いや,あの頃と違って,ちょっとしんみりきました。

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2010年10月11日 (月)

夜空には星のないところはない

2月くらい前,勤務校の学園休業期間(世間で言うお盆休み)を利用して,
マウナ・ケアからの星空を眺めることを主な目的として,
ハワイ島に4日間行ってきました。

序でに,オアフ島にも,21年ぶりに3日間行ってきましたが,
オアフ島,特にワイキキ周辺の変わり様には,聞いてはいましたが,
がっかりして帰ってきました。
具体的には町の汚さと,交通マナーの悪さです。
ハワイ島ではレンタカーを借りてあちこちに移動しましたが,
オアフ島ではほとんどコンドミニアムから出ずにいました。
唯一,ワイキキで良かったのは,セント・アウグスティヌ教会。
平日にも関わらず,毎日ミサに参加することが出来ました。
ここの教会はビーチサイドということもあり,
さすがに水着のままではダメですが,
ビーチサンダルと,袖無し・半ズボンでミサに参加している地元の人が大勢いました。
以前,サイパンでミサに参加したとき,
皆さんが襟のあるシャツと長ズボンだったこと対照的でした。
ところ変われば,ミサに参加する服装に対する考えは違うのですね。
しかし,変わらないことは,そこに行けば,ご聖体
(信者ではない方のために,説明すると,
本来目に見えないキリストの体=命を,
教会が定めた”秘跡”という制度に従って,ウエハウスのような見える形にしたものです)
をいただけるということです。

つまり,世界中どこに行っても,カトリック教会に行けば,
そのような”秘跡”としての,キリストに,出会うことが出来るわけです。

難しい話はこの辺にして,
マウナ・ケアですが,ここはご存知のように,約4200メートルのその山頂付近には,
世界十数カ国の天文台があり,日本の国立天文台もすばる望遠鏡を設置しています。
この夏のハワイ行きはここに行くことが目的でした。
もちろん,そこから観たサンセットや雲海はきれいでした(写Hawaii_5真をクリックしてみて下さい)。

しかし,なんといっても圧巻はその星空です。
肉眼で見たのですが,お天気にも恵まれ
(一年中ほとんど晴れるそうです。だから天文台には適している),
天の川さえ,手に取るように見ることが出来ました。
そして,日本では考えてもみなかったことですが,
夜空にはどこにでも星があるということです。

更に,案内してくれた現地の星空専門のガイドさんの話を聞きながら,
ちょっと感動したことがあります。

ガイドさん「本当に日本では考えられないくらいの星の数でしょう」
私「本当にそうですね。どこを見上げても星がある」
ガイドさん「肉眼でこれだけ見えるのですからね」
私「・・・」
ガイドさん「・・・」
私「あっ,そうか」
ガイドさん「肉眼で見えない無数の星が・・・」
私「そうですね。もし全部の星が見えてしまったら,空一面,星で一杯。銀色な訳か」
ガイドさん「夜空には,いや空には星のないところはない」
私「あの黒くて何もないようなところにも,実は遠くには星がある」
ガイドさん「そうなんでしょうね。なかなか想像しがたいですが・・・」

空には星がないところはない。
夜空を見上げても星が見えない暗いところにも星がある。

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2010年10月10日 (日)

「君がいなかったら・・・」

私は教員をしています。
当たり前ですが,毎日,苦戦している生徒と関わっています。
そして,苦戦している先生方とも・・・。
そういう私も,それなりの苦戦をしています。

教師は商売柄,生徒の将来を考えます。
いま,「考えます」と書いたけれど,正確には,生徒の将来に「口出ししている」と言った方が合っているかもしれません。

特に,人間関係で苦戦している生徒や,自分との関わりに苦戦している生徒には,
教師は,その生徒の将来に口を出したくなります。
「そんなことしていたら,君は社会に出た後,通用しないぞ」といった
なんともゾッとするようなお説教を,未だに耳にすることさえあります。

しかし,苦戦している生徒には,いや,普通の生徒でも,
大人が思っているような将来など,架空の世界に過ぎません。
ところが,大人にとっては,生徒にとっての「将来」は自分が歩んできた道でしかありません。

「オマエの将来を考えろ!」と言っている大人に,私はときどき言いたくなることがなります。
あなたの言ってる将来とは,あなたが歩んできた(か歩めなかった)道なのではないかと。
生徒たちの将来なんて,僕たちに想像できるはずがない。
それを,自分たちが歩んできた過去に置き換えて話す大人(教師)がなんと多いことか。

少し前になりますが,6月30日付けの朝日新聞で,香山リカさんが,次のように言っています。

人が幸せの感覚を得るには「違うものに変身しなさい」とか「こういうものを目指しなさい」と求めるのではなく,すでに達成していることを十分評価してあげることです。

耳が痛いです。
明日こそ,自他ともに幸せな感覚を得たいものです。

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