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2010年10月24日 (日)

命から命へ

一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが,死ねば,多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は,それを失うが,この世で自分の命を憎む人は,それを保って永遠の命に至る。(ヨハネ福音書12章24・25節)

 101024lj_3 若い頃,長い間悩んでいたとき,この聖書の一文を読んで,ハッとしたことを今でも鮮明に覚えている。
  その頃,大学一年生だった私は,まだキリスト教のことはほとんど何も知らなかった。聖書も持っていなかった。だから,上述の聖書箇所も,ある本の中で読んだ。その本は,大学の一般教養で「美術史」という科目を担当していたジョセフ・ラブ(本名)という名前の教授が書いた『教えるヒント学ぶヒント』(新潮選書)という本の中に書いてあった。私はこの科目を履修していて,その先生から直接,この本を購入した。
 先生のことは,「ラブさん」と呼んでいた。優しい先生だったが,レポートの評価は厳しかった。その後,大学を辞められて,現代画家としての創作活動に専念したとうかがっている。

 あの頃の私は,何かにしがみつき,あるいは,過去に囚われ,前進できずにいた。そんな精神状態で読んだ「一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである」は,まるで自分自身を指しているように思えた。何の生産性もない日々を何年間も過ごしてきたからだ。 

 あれから二十年以上経っている。その後,カトリックになった私は,この聖書箇所が座右の銘のようになった。
 ここには,「命」という言葉が3回出でくる。しかし,この3回出てくる「命」のうち,最初の2回の「命」と最後の1つの「命」では,もともと違う意味の単語を,日本語では同一の「命」と訳している。「自分の命を愛する者は」と「自分の命を憎む人は」の方の「命」は,プシュケーという単語で,これは,日常的な命,つまり,衣食住によって成り立っている現在の命の意味。それに対して,最後の「永遠の命」の「命」の方は,ゾーエーという単語で,これから入ってゆく,神によって準備されている命の意味。
 もちろん,二十数年前に読んだときは,そんなことは知らなかった。しかし,あのとき,「地に落ちたことにしよう」という救いの言葉を聞いた私は,明らかにそれまでとは違った「命」を生きてきたと思う。あの時点から見れば,ゾーエー(神から準備された命)を生きてきたのかもしれない。もちろん,現在から見れば,プシュケー(空腹だったり,痛かったり,喜んだり,悲しんだり・・・)ではあったけれど。

 101024_3 今年出版された『聖書の読み方』(岩波新書)は,聖書を読むための優れた入門書(ただし,高度)だと思う。その本の中で著者・大貫隆氏(聖書学者)は次のように述べている。

「永遠の命(ゾーエー)」とは現下の「自分の命(プシュケー)」を超越的な視点から受け取り直したものに他ならない。「永遠の命(ゾーエー)」は現下の「自分の命(プシュケー)」と別のものではない。それは現下の命を自明視して,それだけにこだわるのをやめて,神から贈与された超越的な命として受け取り直したものである。

現在と永遠の関係,日々の暮らしと神の国の関係が明確かつ簡潔に示されているのではないだろうか。

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