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2010年11月11日 (木)

インクルージョン(11/11改)

先日『フィンランドにおける特別ニーズ教育』という演題の研修会(講師:成蹊大学教授 牟田悦子先生)に参加しました。

フィンランドというと,私が連想することは,映画『かもめ食堂』と白夜くらいだったのですが,この国は実は,教育先進国だったのですね。

たとえば,3年に1回実施されているPISA(世界規模で実施されている義務教育終了段階の生徒の学力テスト)の結果は,過去3回連続世界一です。

フィンランドでは,教師は大変に尊敬される人気の高い職業で,小学校以上の教師になるためには,修士資格が必要。すなわち,教師は研究者でもあるわけです。

隣接するスウェーデンやロシアに支配された時代もあるのですが,1917年に独立しています。そして,なんと,国際経済競争力は世界第1位なんです。古くから行われている林業は有名ですが,最近では,携帯端末機の世界シェア1位を誇るノキア社がフィンランドの法人です。

あと,学校教育の中に「部活動」という概念がないことは日本では考えられないことです。尤も先生は研究者ですから,当たり前といえば当たり前。職員室というのは,お茶飲み場程度のものであり,授業時以外の時間,先生方は,各自に与えられた個人研究室に籠もって教材研究や自分の研究を進めています。

そして,国民性として平等を重視するわけです。これは約8割のプロテスタント(と1割強のカトリック)の影響があるのかもしれません。そして,この国の(特別支援教育を含む)教育の原則は,『インクルージョン』(障碍のある人もない人も同じ教育を受けるという意味)なのですが,この『インクルージョン』が本物のインクルージョンを実践しているらしいのです。

小さな英和辞典で引くと,インクルージョンには,包含,包括,参入といった意味があります。
したがって,教育の世界でインクルージョンといった場合,障碍者を排除せずに同じ場所で教育を実施するといった意味になりますが,フィンランドでは,インクルージョンをそんなレベルでは捉えいないとの講話がありました。

では,フィンランドにおけるインクルージョンとはどんなイメージなのかというと,包含,包括,参入などという,なんだか”何となく仲良しこよし”みたいな行政的なものではなく,インクルージョンとは,”質の高い教育をどの子にも!”という意味で捉えられているそうです。そして,この「どの子」の中でも,とりわけ,手のかかる子やスローラーナーに,時間をかけることは当たり前のこととして市民全体が考えているそうです。

このことは,平等やインクルージョンの本来の意味を思い起こすのにいいヒントになります。

フィンランドにおける教育のインクルージョン化は,平等という思想の上に成り立っています。ここで,平等とは,「みんなに対して同じことを」という稚拙なものではなく,「その人にとってよりベターなことを」という思想です。すなわち,「人によって対応を変える」ということが,基本なのです。
日本でもどこの国でもそうですが,すべての子どもは援助を必要としており,必要としている援助は一人ひとり違います。その,一人ひとりの違った援助ニーズに応えることが教育です。

心配な子に時間をかけることは当たり前のことなのです。しかし,日本の場合,こんなことを言うと,ときどき,「贔屓だ」という不平の声が出てきます。そして,そういった声は,たいてい,自分の子どもに優等意識がある層から聞こえてきます。これはとても残念なことです。実際には,教室にいる子どもたちは,苦戦している生徒に教師が手厚く関わっているのをみても,批判的にはなりません。かえって,苦戦している生徒が大人から大切にされている姿を見て,「自分達」は大事にされているということが伝わるものですし,教師がそういう姿を見せることも教育の大事な側面なのだと思います。

苦戦している生徒や不利な生徒が,自分の能力(できないことを含めて)を大切にされる環境こそが,すべての子どもが大切にされている世界ですし,真にInclusiveな世界であると考えます。

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