2010年6月17日 (木)

これでおしまい!

中島みゆきさんの「恋唄」という歌の中に,

ありがとうって意味が 
これきりっていう意味だと
最後まで 気がつかなかった

という歌詞がある。とてもせつない歌です。

恋愛をして,最後の別れ話の最中に,「ありがとう」って言われると,「ああ,本当にもうこの人は僕と別れるつもりなんだ」と一気に心に穴が空く。

「ありがとう」って言葉は,普通は言われると嬉しい言葉なのに,恋人の最後の言葉として,聞くのは辛い。感謝の言葉であることには違いないのだが,昨日まで言われていた「ありがとう」とは決定的な違いがある。これまでのことを全部ありがとうという意味。これが最後という意味。これからは,もう,言えなくなりますという意味。

「お礼なんかいいから,そんなことよりも,これからも付き合ってほしい」

そんなふうに思う。
でも,「ありがとう」って言葉で,もうダメなんだってことがわかる。

さて,恋愛場面ではなく(それも含むが),日常場面で,使われる「がんばって」という言葉にも似たような側面がある。

最近はこの言葉「がんばって」を,うつの人に言ってはいけない(一般的にはその通りだけれど,絶対に言ってはいけないわけではない。場合によっては,言ってあげることが必要な場合もある)ということばかりが新聞などによく書いてあるが,うつの人ばかりではなく,普通の日常会話の中でも,別の意味を持っていることに気づく。

何気ない会話の最後にも,「じゃあ,がんばってね」と言って別れることがありますよね。

生徒も「がんばって」と言われると,「あっ,もうこの話,終わりにしなければいけないんだ」と思うらしい。

僕たち教員は,「がんばって」といいながら,知らず知らずに,生徒に対して,「この話は終了」というサインを送っている。

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2008年9月16日 (火)

風詩

私は一週間の半分くらいはマイカー通勤で、残りの半分は江ノ電バスか、JRと徒歩で通勤している。
帰りは、下りホームはほぼ無人駅に近い北鎌倉駅で降りて、山の上の我が家に向かう。
明月院の横の坂を頂上まで登ると、家と同じ標高に達する。

さて、この帰り道、特に明月院(俗にいう紫陽花寺)の横を通るときは、
今は、秋の虫が大合唱だ。
この秋の虫の大合唱を聞くと、必ず思い出す歌がある。
岡林信康さんの『風詩』という歌。

♪秋の終わりに 鳴く虫の音は
そばにお前が 居るのに淋し♪

という歌い出しを、つい小声で口ずさんでしまう。
因みにいつも一人で歩くので、そばに「お前」は居ないのだが。

全部歌詞を載せたいところだが、著作権の問題があるので、
抜粋して紹介したい。

♪あの世この世を 幾度も往くは
もっと愛して 惚れるがためよ♪

この辺りって、絵本の『100万回生きたねこ』(佐野洋子、講談社、1977080917年)を思い出します。
それまで、どの飼い主も好きになれなかったねこは、
死んでも死んでも、また別の飼い主のねことなって、生き返ります。しかし、最後に、たった一人(一匹)の白いねこを好きになったあとで、死んだら、もうその主人公のねこは2度と生き返ることはなかったというお話です。

僕たちがなかなかあの世に入れないのは、まだまだ愛したり、惚れたりすることが足りないから?

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2008年9月 6日 (土)

無理なら私がついてゆきます

私についてきなさい。
無理なら私がついてゆきます。

冒頭の句は,~祈りを深めるために~というホームページに書いてあります。
イエズス会司祭(私に洗礼を授けてくださった神父様)が協力者として名を連ねています。

一行目の,「私についてきなさい」というニュアンスのことを,イエス様は,熱心に弟子や人々に語っていたことを聖書は伝えています。たとえば,マタイ福音書16章24節などです。
しかし,「無理なら私がついてゆきます」に該当するような記述はないような気がします。近いものとしては,同じマタイ福音書の28章20節後半の「わたしは世の終わりまで,いつもあなたがたと共にいる」という記述でしょうか。

それにもかかわらず,私は,この2行目の「無理なら私がついてゆきます」にとても惹かれるし,私にとっての神はこんな方です。
なぜなら,私が神についてゆこうと思っても,いつも遠くにかすんでしまい,いつでも見えなくなってしまうからです。
しかし,そんなときに,「無理なら私がついてゆきます」と仰有る神が後ろにいるという。
また,ときには抱きかかえて歩いてくださるという。
これも聖書のどこを探しても書いてはない。

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2006年8月29日 (火)

秋風がそっと座った

各駅停車060828_5
先に降りた
キミの席に
秋風が
そっと座った

知り合いが本を出版された。
しかも,有り難いことに送って下さった。

この知り合いのとは,
実は,そんなに何度も会ったわけではない。
おそらく数えるくらい。
でも,会ったときには,本来の会うための目的を超えて
久しぶりに会った同級生のように話してしまった。

いただいた本はには,「五行歌」というジャンルの詩が
何十編か載っている。
冒頭の一編もその一つで,今回僕が一番気に入った詩だ。

伊豆の恋人岬というところに行ったとき,
そこの記念碑に「途中下車禁止」
と書いてあったのを思い出した。

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2006年3月13日 (月)

失ったものが大きければ大きいほど

「私は携帯を持ったことがない。不便だろうと言われるが,それはケータイをもったとき感じることではないのか。それを使わない今は,何が不便なのか私には分からない。便利なものを手に入れるという事は,不便がひとつ増えるという事でもある。」

これは,今読んでいる岡林信康著『バンザイなこっちゃ!』(ゴマブックス 2005年)の151ページから152ページに書いてあることだが,本当にその通りだと思う。それがなかった頃はさほど必要性を感じていなかった携帯電話だが,今では,ないと結構困ることがある。たとえば,ウチの三女は片道約2時間の遠距離通学だが,下校時は遅くなるので,家内か私と携帯メールで連絡を取り合い,安全のために最寄り駅から一緒に帰る。娘か家内か私の誰か一人が携帯を忘れると,この連絡が上手くいかず,結構不便で,オマケに三女に対する心配が増す。

しかしまた,何かを失うということは何かを得ることになると思う。その最たるものが恋だろうか。確かに失恋の痛手は大きい。心にポッカリ穴が空くどころか,体の半分以上をもぎ取られた気分でしばらくは過ごさざるを得ない。しかし,ポッカリ空いた穴。あたかももぎ取られたような体の一部が大きければ大きいほど,そこには「何か」が入る余地がある。それは新しい,愛する人かもしれないし,あるいは信仰のような精神世界かもしれない。

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