2007年2月15日 (木)

答なんか・・・

勤務校では,高1対象に「ゼミ」という授業が時間割の中にあります。
今は,文部科学省学習指導要領の『総合的学習の時間』の単位にカウントされていますが,
勤務校では,文部科学省が『総合的学習の時間』なんて言い出す前から,実施しています。
私は数学教師ですが,『自分とつきあう』という,なんだか怪しげ(?)なゼミを担当しています。
それはさておき,
それらのゼミの中に『社会のしくみを考える』という,またまた怪しげ(=面白そう!?)な講座があります。
このゼミの一大特徴は,1年間,毎回講師が変わるということです。
講師は卒業生が務めるのですが,原則として,41歳年上のOBが講師としてやってきます。
でもって,今日はたまたま数学の先生がやってきました。
実は私も数学教師なのですが,今日の数学の先生はすごかったです。
何がすごいって数学へののめり込み具合がすごいのです。
なんでそんなことを知っている(同じ時間帯の裏番組授業なのに)のかというと,
この『社会のしくみを考える』という講座だけは,
放課後に,ほぼ同一内容で,中一から高三まで自由参加のオプションコースがあるのです。
通称『OBゼミ』といいます。
私は今日,それに出てきたのです。

さて,そこで講師の先生がこんなことを言っていました。

「正しいとわかっていることを学ぶのはつまらない。
寧ろ,正しいかどうかわからないことを考えるのが面白い。

つまり,正しいことが証明できるのか,
それとも,正しくないことを立証する例(反例といいます)があるのかを探ることが面白い」

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2007年1月22日 (月)

他のありよう

不便なところに住んでいるので,家族を最寄り駅まで迎えに行くことが多い。
大抵,電車の到着時刻に合わせて私がちょっと先に着き,
少しすると,妻とか娘とかがが車に乗ってくる。
その数分から10分待ち時間の暇つぶしのために,
車には,一冊の本が置いてある。
スーザン・ヘイワード『聖なる知恵の言葉』(PHP研究所 1995)だ。

実はこの本,昨年,「ブックオフ」に古本を売った際にもらったサービス券で買った。
多分,100円か200円だったと思う。

今日,こんな言葉を見つけた。

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2007年1月10日 (水)

バックミラー

未来に怯えるとき
人は誰もその怯えが現在のものであることに気づかない。

いま怯えている人
実はその怯えは過去の体験を追体験していることに気づかない。

前を向いても怯えてしまう?
わかるな~,その気持ち。
でも,君を怯えさせているのは,
実はバックミラーに写ってるものだよ。

バックミラーが見えるのは,君が前を向いている証拠。

それがあれば振り向く必要はない。
前を向いたまま,来た道を見られるもの。
それがバックミラー。

だからバックミラーはあっていいものだし,必要だよね。

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2007年1月 6日 (土)

風の中

強風の中,空を飛ぶ鳩を見て,風がなかったらあの鳩はもっと自由に飛べるだろうにと考えた人がいました。
風とは空気の流れです。
風を受けるということは,風がないときよりも,
より多くの空気を受けるということです。
そして,その空気は,酸素,二酸化炭素,窒素などの分子から成っています。
ですから,風を受けるということは,そのような分子がたくさん衝突してくるということです。
分子がたくさん衝突してくると鳩はうまく飛べないわけです。
ならばいっそのこと,風ではなくて空気そのものをなくしてしまえば,
鳩には何の分子も衝突しないのだから,鳩は自由に飛び回れるかといえば,大間違い。
鳩が飛ぶためには,空気を押さなければならない(その反作用で鳩は飛べる)のですが,空気(つまりいろいろな分子)がなければ,いくら翼を羽ばたかせても,反作用の力が帰ってこないので,まったく飛べません。
これでは,強風のときより都合が悪いわけです。
強風時は確かに飛びずらそうだった鳩も,うまくその風を利用すれば,実は結構,移動する自由度は高いのだそうです。ヨットがただ風の向きだけにしか進めないわけではないことと同じです。

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2007年1月 1日 (月)

コンプレックス

070102_0_1 今年の"NEW YEAR"は,初めて国外で迎えました。移民(大部分が英国からですが)が52パーセントもいる,その国の港町に6日間滞在したのですが,港ではニュー・イヤーに合わせて大花火大会が催されました。治安は良い方の街だったので,新年のカウントダウンの2時間くらい前から,家族で連れ立って港の方へ繰り出しました。立錐の余地もないほど,港の公園は人・人・人・・・でした。酔っぱらった若い男性が,何人か私の家族(女性4人)に絡んできたりしましたが,そんなに大きな問題にもならずに,やり過ごすことができていました。私たち家族の周囲には,大学生か20代の男女のグループがいて,すぐに打ち解けた雰囲気になりました。この街では,アルコールを「家の前以外」の道路で飲むことが禁止されていると聞いていたので,私は(大好きな)アルコールを持たずに,その花火大会を見に行きました。しかし,この日だけは特別だったようです。私たち家族は,先ほどのグループの中の,ある姉弟と知り合いになり,妻と私は,新年が明ける30分くらい前に,その姉弟から缶チューハイ(みたいなリキュール)をいただいてしまいました。日本人らしく(?)遠慮したのですが,その姉弟が"HAPPY NEW YEAR"と繰り返し言いながら,勧めてくれたので,「サンキュウ・ベリ・マッチ」と日本英語(?)で言いながらいただきました。 070102_1

そうして,周囲の若者たちと,私の家族で新年のカウントダウンを待っていたのですが,新年の20分くらい前にアクシデントが起きました。 私は突然,背後から何者かに背中を押され吹っ飛ばされたのです! 実は,元々ギックリ腰の状態だったので,その痛みは,気を失う程でした。 2メートルくらい飛ばされましたが,本能的に地面すれすれで体勢を立て直し,かろうじて転倒はしませんでした。しかし,持っていた缶チューハイが次女にかかってしまいました!私は,これも本能的に,背中を突いた者の方を向きました。風貌や鼻の下の髭から,イスラム系の人に似ていました。しかし,定かではありません。体勢を整えつつある私を見ながら,その男は,何ごとか私に罵りの言葉を浴びせながら,歩き去って行きました。

(私はもちろんですが),私の家族と,先ほどの缶チューハイの姉弟はとてもびっくりしました。家族は日本語で一斉に「大丈夫!?」と寄ってきました。即座に,「大丈夫!」と答えました。そして,缶チューハイをくれた姉弟の姉の方も,多分英語で,「大丈夫か?」というような意味のことを言ってくれたのだと思います。なぜ,「思います」と書いたのかというと,私にとっても,周囲にとってもあまりに急であったことと,私の語学力のなさから,彼女が私にどんな言葉をかけたのか,正確にはわからなかったからです。 しかし,間違えなく,「大丈夫か?」という意味のことを言ったと思います。なぜなら,私が,"I'm OK."と言ったのか,"All Right."と言ったのか(これも覚えていませんが),そんなようなことを言ったら,「ああ,良かった」という意味のリアクションをしてくれたからです。

さて,この事件から一日経って,このブログを書いていますが,私を乱暴に突き飛ばした男が,言語で何と言ったのか,わかりません。そもそも何語で怒鳴られたのかもわかりません。また,私を心配してくれた姉弟が何と言ってくれたのかもわかりません。それも何語だったのか?それまで彼等は英語を話していましたから,英語なのでしょうが・・・。 しかし,わかっているのは,私を突き飛ばした男は私が邪魔で敵意を持っていたこと,そして,直前に知り合った姉弟は私を思いやってくれたこと。 どちらも,コミュニケーションがとれていたわけです。もちろん,私を突き飛ばした男性のコミュニケーションの仕方は下手ですし,私は,悲しいし,痛いし,怒っています。ゆるせない気持ちもあります。 しかし,彼と私は明らかにコミュニケートしました。なぜなら,私は,突き飛ばした男にも反応しましたし,心配そうに声を掛けてくれた姉弟にも反応したからです。

ある心理学の本に, "The meaning of your communication is the response that you get." と書いてあります。私が男に突き飛ばされてそのまま倒れ込んでいたら,(あるいは,押されても,まったく微動だにしなかったら,)つまり,無反応だったら,コミュニケーションは成立しなかったでしょう。また,心配してくれた外国人の姉弟に,私が何らかのメッセージを発さなかったら,コミュニケーションは成立しなかったでしょう。しかし,かろうじてどちらにも反応することができました。そして,そのどちらも,言語的な反応ではありませんでした。正確に言えば,何某かの言語は発していたのですが,それ(言語)でコミュニケーションしたとは到底思えません。

そもそも,この一連のコミュニケーションの始まりは,見知らぬ男が,私を突き飛ばすという,極端なボディ・ランゲージから始まったわけです。例の姉弟も私に何と声を掛けたのかわかりません。ただし,明らかに,顔の表情や,座り込んだ私の目線まで下がってきて語りかけてくれた姿勢から,心配してくれている様子が伝わってきました。

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2006年12月11日 (月)

そんな重荷に耐え続けることはできない

私の好きな聖書箇所の一つに

「(神さまは)あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず,試練と共に,それに耐えられるよう,逃れる道をも備えていてくださいます。」
(Ⅰコリント1:13 日本聖書協会 新共同訳聖書)

というのがあります。
この聖句は結構私の支えになっています。
特に,最後の,神さまが逃げ道を準備して下さっているという行が大好きです。

ところが人間はときとして,自分にとんでもない試練を課してしまう。
それは,人に対する怒りの停滞です。
先月も,「怒りは自分に盛る毒」という
アメリカ・インディアンの格言を引用しました
が,
今日も同じ本(エリコ・ロウ『アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉』扶桑社)
から,ほぼ同意の格言を紹介します。

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2006年12月 2日 (土)

退屈の専門家

061202 今日は,臨床パストラルケア教育研修センター主催の一日研修会に出てきました。臨床パストラルケアとは,「患者や家族,その友人,医療従事者のスピリチュアルな痛みやニーズに寄り添うこと」と,同センターは定義しています。

今日の一日研修会のテーマは「患者さん訪問」。講師は同センター所長で,レデンプトール会司祭のウェルデマール・キッペス神父(ドイツ人)。

訪問前の心構えから,訪問の実際,訪問後にすべきことまで,実際に即した基本事項を学びました。
基本は,義務感やボランティア精神から訪問するのではなく,訪問させていただく相手から学ばせていただく姿勢を持つということでした。

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2006年11月21日 (火)

心の中に魚が棲んでいる人

鎌倉に湖があることは,実はあまり知られていないが,鎌倉湖という湖が存在する。
私の家から徒歩10分くらいのところにある。
私が利用しているバスも,江ノ電バスの「鎌倉湖畔循環」という系統だ。
私の家の前の通りは,湖畔通りという名前が付けられている。
ただし,そんな風に呼ぶ人にあったことはない。
みんなバス通りと呼んでいる。
ああ,風情がないなあ。
まあ,江ノ電バスには風情があるからいいか。

この湖。名前は鎌倉湖だが,元は灌漑用の人工池だったらしい。
江戸末期から明治初期かけて地元の農民たちが労働奉仕で作ったらしい。
今の時期はとても紅葉がきれいだ。

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2006年11月19日 (日)

「病」を排除する効率主義への警告

061119_1 今日の朝日新聞の「読書」のページで,精神科医の香山リカさんが,『生命と現実』(河出書房新社)という本の書評を書いていました。私は気になってはいるものの,まだこの本を読んでいません。精神病理学者・木村敏氏と哲学者・檜垣立哉氏との対談本です。香山リカさんによるその書評のタイトルを,そのまま今日のブログのタイトルとしました。
香山リカさんは,書評の最後を次のように締め括っています。

「症状はすべて生体にとって,意味のある反応である」。
これは,「病であること」をマイナス要因として
とかく排除しようとする効率主義的な現代社会への
大いなる警告でもあろう。

これを読んで私は,「肯定的意図」という言葉を思い出しました。
先月,あるワークで学んだ考えで,
表面的には,どんなにマイナスな行動や症状にも,その裏側,
というか深層部には肯定的な意図があるというものです。
20世紀の偉大な心理療法家の一人に数えられるミルトン・エリクソンが
来談者と関わる際に,前提としていた重要な考えです。

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2006年11月18日 (土)

青い梅

061118_1 アメリカインディアンのホビ族という一族の格言に

怒りは自分に盛る毒

というのがあるそうです。
(エリコ・ロウ『アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉』扶桑社文庫p.138)

また,聖書には,

人の怒りは神の義を実現しない
(ヤコブの手紙1章20節 日本聖書協会・新共同訳聖書)

と書いてあります。

しかし,「怒り」という感情そのものは悪でも善でもありません。
そもそも感情に善悪はないのですから・・・。

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2006年11月17日 (金)

メッセージ

私の住む街に,とあるラーメン屋さんがある。
このラーメン屋さんはもう何十年もこの街で営業していて,
地元の人にとっては,知る人ぞ知る店であったらしい。

ラーメン好きの私も,この街に引っ越してきてから,
いろいろな人から聞いて,その店に行ってみた。

正直言って,美味しくなかった。

その話を,ラーメン好きの元同僚である先輩教師に言ったら,
「その通り。今は全然美味しくない」と仰っていた。

つまらない話だが,良くある話でしょう?
テレビとかで紹介されると,
料理店なら,ほぼ100%その店の味は落ちる。
美容院なら,ほぼ間違えなく腕が落ちる。

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2006年10月26日 (木)

追い風?

061026 いま読んでいる『グループの力を生かす』(C.S.L学習評価研究所 2005年)という本に,

どの港にはいるのかわからなければ,どの風も追い風にはならない

という格言が載っていた。人が進んで行くためには目標が必要であるということ述べている。
実に格好の良い格言だ。
まず,目標を定めなければ,人は進んでいくことができない。
ローマ時代のセネカという哲学者の言葉だそうだ。

読んだ瞬間,やっぱり先哲の知恵は素晴らしいと感銘を受けた。
というか,セネカってやっぱり詩人だなあと思った。

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2006年10月20日 (金)

低みに立つ

061020 昨日,ちょっと用事があって,(住まいのある市の)「中央公園」に行ってきました。
そこは,周辺の池や湿地帯も含めて,思っていた以上に素晴らしい場所でした。
写真の案山子もその公園の中なのか外なのかわからない田んぼに立っていました。

さて,この案山子とは全然関係のない話なのですが・・・。

同僚と二人でこの公園を散策(実は行事の下見)していたところ,小さな子供の泣き声が聞こえました。
同僚と二人で泣き声の方を見ると,なんと,2歳くらいの赤ちゃん(?)が,かなり急な崖を四つん這いで登っている,というか,登れないで泣いているところでした。

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2006年10月17日 (火)

「欠けている」という恵み

061017_1 左の画像の上の段の漢字。普段あまり使いませんよね。特に最近はPC入力の時代なので,これらの漢字を手書きすることは滅多にありません。左から,かいこの作る「まゆ」,なぎなたの「なぎ」,植物の「にれ」,ひんしゅくの「ひん」,そして最後は魚の「かつお」です。多くの人にとって,読めるけれど書けない漢字ばかりです。

さて,漢字を覚えるときは,私が小学生の頃は,必死に書いて覚えました。正確には覚えさせられました。国語の教科書に出てくる新出漢字を,マス目入りの国語ノート(有名なのはジャポニカ漢字帳)に10回とか,20回とか書いて覚えるわけです。多分,今でもこの覚え方が主流なのだと思います。

しかし,実は他にも覚え方があります。

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2006年10月16日 (月)

『僕たちの戦争』

いま,担当している高1ゼミナール『自分とつきあう』という講座で,V.フランクルの『夜と霧』を読んでいます。囚人となった精神科医(著者)が内部から見た強制収容所体験記としてあまりにも有名な本です。この本は,アメリカ国内で数年前に実施された「100年後にも読み継がれて欲しい本ベスト100」の中で,7位にランクされているそうです。1位はもちろん聖書ですが,心理学・精神医学医関係の本では,この本が最高位だそうです。この本を読まれた方は納得すると思います。このブログを書いているのは自宅で,テキスト(本)は学校にあるため,正確な引用はできないのですが,その本の中に,(アウシュビッツ強制収容所のような)異常な状況に置かれた場合,異常な反応を示すのが正常なことであると書かれていました。

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2006年10月 4日 (水)

カイン

061004_1 きみは,油断しているとつい他人の期待にそおうとしてしまうだろう。それから自由にはなれないだろう?そのことで悩み続けているだろう?
僕の経験からすると,こういう人種とは異質な人種が地上にはおびただしく生息している。彼らは,他人の期待を無視できたり他人の期待を適当に振り払って生きていける,僕にとってはまことに不可解な人種だよ。

上の文章は中島義道著『カイン』(講談社 2002年)の第3章「なるべくひとの期待にそむく」からの引用です。(67ページ)

中島義道さんの本(リンク先は過去の記事)はたいてい発売されるとすぐに読むので,多分4年前に読んだのですが,この本には,人間には2種類の人種があると書かれているのです。その一方がカインの末裔で,他方が,アベルの末裔ということになるのでしょう。

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2006年9月25日 (月)

大切なことは・・・

大切なことを知るのは いつでも悲しみと引き替え

大切なことは いつだっていちばん後に気がつく

一行目は,昔,「フォークの神様」と呼ばれていた岡林信康さんの歌の歌詞の一部で,多分,今から20年以上前のものだと思う。熱心なプロテスタントの牧師の息子として育った岡林さんが30代の頃に書いたものだと思うが,この歌詞を聴いた二十歳を過ぎたばかりの私は,初めて悲しみというものの本性をみたような気がしていた。若かった私は,「それならば大切なことはできるだけ知りたくない」といつも思っていた。しかし,大切なことは少しずつ知らされる。その数だけ,やはり悲しみも数えてきた。この曲の題名は忘れたが,この一行の歌詞「大切なことを知るのは いつでも悲しみと引き替え」は始終脳裏に蘇る。ここでいう「大切なこと」は,たとえば,肉親の死であったり,愛する人が去っていくことであったり・・・,であった。

二行目は,中島みゆきさんの『後悔』という歌詞の一部。これはまだ6年くらい前の歌だと思う。日々迷いはあるけれども,「いつでもその時点で最後に気がついたことが大切なこと」。そのように私はこの歌詞を受け取っている。因みに前後の歌詞は全然覚えていないので,歌全体の中で解釈すれば,そうでないのかもしれない。しかし,私にはこの一行しか耳に残らなかったので,しかたない。

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2006年9月24日 (日)

「甲斐性なしで何が悪いんや」

昨日は、「頑張れ」という言葉について書いてみたが、もう一つ、気になる言葉がある。それは、「根性」とか、(それとセットで使われる場合の)「情熱」という言葉だ。正しい情熱は、正しい研鑽によって得られる。研鑽なき情熱を、私は暴力だと思う。また、根性という言葉は、なぜか中学生の頃から性に合わない。単に好き嫌いの問題程度かもしれないが・・・。もうちょっと考えてみたい。

IT関係のワーキングウーマン(関西在住)であるぴよさんは、ブログうつらうつらとまどろみながらの最近の記事「オレの話を聞け!」の中で、

「計画の遅れを把握するじかんがあったら、根性でやるんや。やれる!やるきになったらいける!」(マジスの補足:これは新しくチームを組んだメンバーの言葉 )ですって。。。 末恐ろしくなりました。星飛馬やないんやから。。。こんな進め方するから(略)病になる人がおおいねん。

と嘆いておられる。

HONDAの創始者・本田宗一郎氏の言葉。

理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である。

私は、以前からこの言葉が好きだった。今でも好きである。特に、前半の「理念なき行動は凶器」という言葉はいつでもぼんやりと心の底に流れていたのだと思う。私は岐路に立った時、求める理念を確認し、とるべき行動を決めてきた気がする。

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2006年7月22日 (土)

主体性の回復~mixi疲れから心理学を考える?~

「mixi疲れ」を心理学から考える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060721-00000069-zdn_n-sci
という記事が7/21のYahooに載っていたので読んだ。

たとえば,「私は朝起きることができない」とか,「私はお酒をやめることができない」など,「私は○○ができない」と考えて,クヨクヨしたり,落ち込んだり,自己嫌悪に陥ったりすることがあるでしょう?「私はmixiを5分たりとも見ずにいることができない」などという人もいるでしょう。
まあ,自己嫌悪に陥るくらいで留まれば良いのですが,あまりそういう思いにとりつかれていると,病理の側面も出てきます。

とにかく大事なことは,無理をせずに休むことや,「早めに弱音を吐くこと」だと思います。そうすれば,上記リンクの記事中にあるような,「多くのマイミクと交流している人が、コミュニケーションに疲れ切ってmixiを突然辞めてしまう」なんてことは減るのだと思います。

さて,こんな抽象論を書いたところで意味ないですね。そこで,今日は私は知っている「主体性回復のワーク」を紹介してみます。

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2006年6月 9日 (金)

神さまの居場所

 勤務校には「愛の運動委員会」という生徒の組織があります。いわゆる,ボランティア委員会です。たとえば,昨日と今日,ジャワ島地震緊急支援募金を校門に立って行っています。
さて,この委員会の活動の中で,中心となっているものは月に一度の児童養護施設訪問です。今週末,11日の日曜日に今月は実施されますが,4月も5月も日曜日に一回ずつ実施されました。参加者は中2から高2までで,4月は21人,5月は10人でした。4月の21人は近年では最も多い参加人数でした。今月からは中1も参加できます。その中1に対して,先日,愛の運動委員の先輩が各教室に出向き,施設訪問の説明をしてくれました。説明してくれた生徒は普段から施設訪問に参加している生徒たちです。児童養護施設(子どもの家)がどういうところか,また,何をするために自分たちが子どもの家を訪問するのかをわかりやすく説明してくれました。そして,「是非,一緒に行きましょう」と誘っていました。
 私も,しばしば施設訪問に生徒と一緒に行く教員として,翌日に施設訪問について,中1生徒たちに次のように話しました。
 

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2006年6月 3日 (土)

無駄なことは何一つない

今日は,神奈川教育カウンセラー協会の定例会に行った。

会場は家から車で30分ほどのところだ。
近くにはコインパーキングがあり,いつもそこに駐車する。
ところが!
今日は,その会場付近のコインパーキングがどこも満車だった。
これは間違えなく一昨日から施行された改正道路交通法の影響だろう。
しかたなく,買い物をする目的もないデパートの駐車場に入れた。

そんなわけで,定例会の会場入りは10分ほど遅れてしまった。
しかし,受付をしていたN氏は,「おう!」と迎え入れてくれた。
N氏に会うのは3回目だが,「おう!」という親しげな挨拶がとても嬉しかった。

さて,定例会の様子は,まあ,やや専門的になるので,いつか別の機会に書くとして,
参加して良かった。

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2006年5月20日 (土)

自我の破れ

今週の高1ゼミ『自分とつきあう』では,E.バーンの交流分析の理論に従って,構造分析をやりました。
交流分析の理論によれば,人はだれでも三つの私,すなわち,P(=Parent。親),A(=Adult。大人),C(=Child。子ども)の私を持つとされています。このPとAとCを自我状態と呼びます。簡単にいえば,その人の行動を決定する心的状態です。Pはまた,批判的な親(CP=Critical Parent)と養護的な親(NP=Nurturing Parent)の二つの面を持ち,Cも,無邪気な子ども(FC=Free Child)と順応した良い子(AC=Adapted Child)の二面を持つとされています。したがって,行動を促す心的状態(自我)は,批判的な親CP,養育的な親NP,大人A,無邪気な子どもFC,順応したよい子ACの五つの面からなるわけです。このどの面が強いかを調べる検査がエゴグラムといわれるもので,日本では杉田峰康氏の方法が有名です。

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2006年5月17日 (水)

知識よりも大切なもの

今年は高1ゼミ『自分とつきあう』を担当しているが,裏番組(同学年同一時間帯の授業)に『社会のしくみを考える』という人気講座がある。これは,同窓会の協力を得て,社会の各分野の第一線で活躍中のOBが輪講で担当している。一昨年度は14期,昨年度は15期,今年度は16期のOBが中心に担当してくださっている。現在ゼミの受講生である高1は57期だから,41歳上(50歳代半ば)の先輩が週替わりでゼミの先生として来て下さっているわけだ。

この授業は毎週水曜日の6時間目にあるのだが,一石二鳥を狙って,水曜日の放課後には,同じOBが6時間目のゼミと同一内容のことを,全学年(外部にも公開している)の希望者を対象にして授業して下さっている。これを放課後OBゼミと呼んでいる。

今日は弁護士をされているOBのT氏が,「街の弁護士として---初心忘れべからず---」という内容で話をして下さった。6時間目は私も裏番組でゼミ『自分とつきあう』をやっているので,他のゼミには出られないが,今日は放課後OBゼミの方に出てみた。

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2006年5月12日 (金)

高1ゼミ『自分とつきあう』(その2)

昨日は高1ゼミでやっている内容を書こうというところで睡魔に襲われてしまいました。
今日は,第1回目のゼミ(4/26)でやったことを書きます。

高1ゼミは毎週水曜の6時間目。私のコースは高1Aの普通教室が割り振られました。
始業ベルと同時に教室に私が入ると,受講者の3人は最前列に並んで座り,きちんと瞑目していました。
私の学校では,全部の授業で開始時と終了時に瞑目が行われていますが,
初めてゼミを持つ私は,「ああ,ゼミでもちゃんと瞑目しているんだなあ」と感心しました。
最前列に並んで座っていたこと,瞑目をしていたことで,私は受講メンバーのすばらしさを直感し,
「あっ,このゼミはきっとうまくいく」と思いました。

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2006年5月11日 (木)

高1ゼミ『自分とつきあう』

生まれたくて生まれてきた人はいないし,今の自分が,かつてなりたいと思っていた自分である人も多くはない。しかし,だからといって,(当たり前だが)他人になることはできないし,自分を変えていくのもなかなか難しい。そんなことを考えている今この瞬間でも,こんな自分と付き合っていなければならない。この文章に興味を持った人に参加してもらいたい。

以前にも書きましたが,これは,私が今年度担当しているゼミ『自分とつきあう』(対象:高校1年生)の生徒向け紹介文です。

学年180人に対して今年は18のコースが用意されているので,1コース平均10名です。例年,フランス語・スペイン語・中国語・韓国語といった語学系コースの人気が高いようです。私が担当する『自分とつきあう』は今年度からの新規参入でしたが,3名の生徒が第1希望で受講しています。

受講案内には一応「定員10名」と書きましたが,テーマをなるべく深く掘り下げるためのに,グループ・プロセスの手法を取り入れようと思っていたので,できたら6名以下で,全員が第1希望の生徒であってほしいと思っていました。

さて,冒頭の紹介文を読んで,このゼミ『自分とつきあう』を第1希望で選んだ生徒は3名でした。第2希望は何人だか知らされていませんが,まあ,何人かいたようです。

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2006年5月 9日 (火)

『窓』

060509 勤務校の国語科が『窓』という冊子を発行している。主に生徒の読書感想文と教員のエッセイからなる20数ページの冊子だ。ここのところ年一回のペースで年度末が近づく頃に配布される。私は毎年これを読むのを楽しみにしている。

一番最近は今年の2月に発行された。第12号。巻頭には同僚のI教諭の『発想の転換を』という評論文が載っている。1500字程度の短い文章だが,助詞の「が」と「は」に関する見事な考察が述べられている。その部分もとても魅力的で紹介したいのだが,一通り考察を表した後,彼は非常に大切なことを教えてくれているので,そちらを引用したい。

以上に述べたことは,広く言えば「発想の転換」ということになるのかもしれませんが,単に見方を変えてみる,とか,別の角度から見てみる,などということではなく,問題の立て方自体を見直してみることで,そもそも自分が解けないと思っていた問題自体が,実は問題として成り立っていなかったという場合があることの例なのではないかと思います。教育の世界では,答よりもその答に至る過程の方が大切だ,というようなことがよく言われますが,私は過程よりも問題の立て方自体の方がよほど大切だと思います。(栄光学園国語科『窓』第12号 2ページ)

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2006年3月13日 (月)

失ったものが大きければ大きいほど

「私は携帯を持ったことがない。不便だろうと言われるが,それはケータイをもったとき感じることではないのか。それを使わない今は,何が不便なのか私には分からない。便利なものを手に入れるという事は,不便がひとつ増えるという事でもある。」

これは,今読んでいる岡林信康著『バンザイなこっちゃ!』(ゴマブックス 2005年)の151ページから152ページに書いてあることだが,本当にその通りだと思う。それがなかった頃はさほど必要性を感じていなかった携帯電話だが,今では,ないと結構困ることがある。たとえば,ウチの三女は片道約2時間の遠距離通学だが,下校時は遅くなるので,家内か私と携帯メールで連絡を取り合い,安全のために最寄り駅から一緒に帰る。娘か家内か私の誰か一人が携帯を忘れると,この連絡が上手くいかず,結構不便で,オマケに三女に対する心配が増す。

しかしまた,何かを失うということは何かを得ることになると思う。その最たるものが恋だろうか。確かに失恋の痛手は大きい。心にポッカリ穴が空くどころか,体の半分以上をもぎ取られた気分でしばらくは過ごさざるを得ない。しかし,ポッカリ空いた穴。あたかももぎ取られたような体の一部が大きければ大きいほど,そこには「何か」が入る余地がある。それは新しい,愛する人かもしれないし,あるいは信仰のような精神世界かもしれない。

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2006年1月 2日 (月)

初詣

060102_2 昨日はブログに書いたようにミサに与ったが,実は10時30分のミサは普段半分ほどしか人がいなかった。理由は,私の所属教会が鶴岡八幡宮という有名な神社の近くにあるからである。鶴岡八幡宮は3が日で210万人の初詣客を予想している。実際には1日の曇天と今日の雨天で予想を下回るであろうが。それで,3が日は,市内中心部への車の乗り入れが出来ない。私の教会は八幡さまに近いお陰で,近所のコイン・パーキングには事欠かず,私もそうだが,普段はマイカーでミサに与るに来る人が割と多い。1日の場合はそれは100%不可能である。また,電車は横須賀線だが,通勤ラッシュ並みの混雑となる。そんな訳で1日のミサは普段の半分の人数で執り行われた。

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2005年12月30日 (金)

「お前は私だ」

051230 愛するとは,なま易しいことではない。

しかし,哲学者の今道友信さんは,著書『愛について』(講談社 1972)の冒頭で,「愛は原体験である」と述べている。原体験とは,すべての人が体験しなければならない(また,しているはずの)体験を指す。

現代の神秘家といわれるモーリス・ズンデル神父は,著書『沈黙を聴く』(女子パウロ会 1992)の中(追加記載:『沈黙を聴く』はズンデルの著書ではなく,ズンデルが残した手記などを,福岡カルメル会が編訳したものでした。30日午後3時45分追加)で,

「愛するとは,他者となること」

と言い切っている。

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2005年12月20日 (火)

生きるために生きること

17日のブログ中のファーブルについての間違えた記述について,調べたり直したりしていっため,昨日(19日)はブログをアップできなかったが,一昨日のブログの最後は「釜ケ崎の話は,今度また書きます。」とくくったので,今日はそれについて。

今年の一月に,生徒を引率して,大阪・釜ケ崎に行ってきた。以下は,その直後に,勤務校の『学園通信』用に書いた文章に加筆・訂正したものです。

JR新今宮駅で電車を降り,釜ヶ崎に近い出口に向かう階段を下りながら,「あれ,においがしない」と昨年も釜ヶ崎を訪れた同僚が呟いた。
釜ヶ崎に行った9人の生徒と4人の教員の中で,私が最も釜ヶ崎のことを知らない。生徒のうち2人は昨年も釜ヶ崎ボランティア活動に参加しているし,他の生徒も倫理の授業で最近の釜ヶ崎のことは学んでいる。また,私以外の教員はみな倫理科である。私は数学科。

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2005年11月29日 (火)

難儀な時にするのが仕事

051129 タイトルの言葉は,下重暁子著『鋼の女』(集英社文庫 2003年)の中にある。この本は,最後の瞽女(「ごぜ」と読む)・小林ハルさんの伝記である。「瞽女」とは,三味線を弾き唄いながら,村々を巡った盲目女性の旅芸人のことで,文献上は室町時代には既にあったらしく,昭和初期までは,新潟県や東北地方の伝統芸能だったものである。ハルさんはその中で最後まで活躍した瞽女であった。1900年生まれの彼女は,生後100日で失明。6歳で瞽女に弟子入り。9歳からは旅芸人としての生活が始まった。それから,1973年目まで,三味線片手に村々を廻り,豪雪地帯の人々の娯楽の一端を担った。1978年に人間国宝となると,「瞽女と鶏は死ぬまで唄わねばなんね」の言葉の通り,再び瞽女としての活動を再開した。そして今年4月,105歳の生涯を閉じた。

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2005年11月24日 (木)

『ブッタとシッタカブッタ』

buta 小泉宏吉著『ブッタとシッタカブッタ』(メディアファクトリー 1993)。12年前に出版された本(マンガ)です。このブログを読んで下さっている方々の中にはご存じの方も多いと思いますが,最近は10代の学生さんも何人か読んで下さっているので,今日はこのちょっと古い本の話をします。

僕はこの本が出た頃に何気なく本屋で手に取り,これは面白いと思い,すぐに買いました。まだ,そんなに有名な本(マンガ)ではなかったと思います。ほどなく有名になり,続編が次々と出ました。いわゆる癒し系の本です。その後「癒し系本ブーム」は今日まで続いていますが,『ブッタとシッタカブッタ』シリーズは,心に染み入る本です。また,マンガ嫌いの僕でも読めるマンガです。

その中にこんな話があました。

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2005年11月21日 (月)

『きよしこ』

昨日紹介したオリエンス宗教研究所発行の月刊誌『福音宣教』2005年11月号に『「いつでもどこでも分かち合い」が切り開く福音宣教』(土屋至氏)という記事が載っている。その記事中に「20世紀最大の聖書学者」バークレーの,次のような考えが紹介されている。

「自分の重荷を軽くする方法は,他人の重荷に手を貸してやることである」
そして,
「自分の悲しみに耐える方法は,人の悲しみをともに負ってあげることである」

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